2018年4月21日土曜日

路上喫煙対策も一緒に進めないと意味がない。東京都の受動喫煙防止条例について。

 国の受動喫煙防止対策「健康増進法改正案」は、骨抜き法案になり、事実上ほとんどの飲食店で喫煙が可能になった。「前に進めることが大事だ」などど屁にもならない言い訳で自民党の部会を経て法案が提出されている。ほとんど意味のない法案だ。
 
 そこに東京都は独自の条例制定を目指して、受動喫煙対策に乗り出した。飲食店の禁煙を面積を問わず禁止するという内容であり、そのことは一定の評価をしたい。
 
netより「引用」
 しかし飲食店の禁煙対策は、路上喫煙対策もいっしょに行わなければ意味がない。建物での禁煙が進むに比して、路上で喫煙する輩が目立つ。渋谷区には路上喫煙防止の条例があるが、まったく機能していないため、ほとんど野放しだ。渋谷区区役所は、ご丁寧にモヤイ像のところに喫煙所を設けたが、これが中途半端な施設で、近くを通ると煙がすごくてむせ返るほどだ。東急デパートの入り口がすぐ近くにあり、扉を開けは放っておくと、建物内部にも紫煙が入りこみ、大変だ。入り口脇近くの案内嬢はさぞかし苦しかろう。「煙が入りますので常はお閉めください」と張り紙がしてあるほどだ。

 人間なんて、皆 ご都合主義だ。喫煙者は煙が嫌いな人間のことなんか考えないし、受動喫煙被害なんと想像できないんだろう。ペット愛好家といっしょだ。何メートルも長いリードで(東京とは条例で確か4m以内と定められている)平気で犬を連れまわす輩、路上を自分たちの縄張りと言わんばかりに占拠して歩く輩たちは、ペットに対する感情を自分たちに都合のいいようにしか考えない。
netより「引用」

 話がそれたけど、路上喫煙対策は、重要だ。もはや条例の周知くらいでは意味がないレベルに来ている。渋谷区の場合、要は条例をきちんと適用・運用することだ。
 ポイ捨ては2万円の罰金としているのに、きちんと徴収しているのかいな。朝、出勤でセンター街を歩くと落ちている吸い殻は100や200ではない。徴収コストがたとえ9割かかったとしても、きちんと違反者から金をとり厳格に運用しなければ意味がない。

2018年4月14日土曜日

加計学園「首相案件」問題。キーマンはおそらく萩生田光一だ

 「加計学園の理事長は首相と一緒にゴルフをする中だそうです」⇒⇒「首相案件」と
関係者の中の伝言ゲームで自動翻訳された。
 
 官房副長官は、首相の一番の腹心を置く(らしい)。安倍が首相という立場で安易に動けない中で、安倍の「意をくんで」政治力を発揮する立場だということは容易に想像できる。
  安倍内閣の官房副長官を務める萩生田光一は、八王子市議~都議~代議士とステップを踏んで今日ある政治家だ。よく言えば苦労人の党人派、悪く言えばのし上がってきた策略家だ。同じ苦労人の菅と政治家としてのキャリは似ているが、菅とはタイプが違うだろう。Wikipediaによると、思想は安倍に非常に近いことがわかる。安倍首相の派閥で経歴の似ている菅に目をかけられ、思想の似ている安倍にかわいがられのし上がってきたことが容易にわかる。学歴も東大や京大出とは違う、亜流だ。これも安倍と似ている。
 
 落選中、加計学園の経営する大学の名誉客員教授を務めていたのは、おそらく安倍の斡旋だろう。公表されている経歴からは接点はそこしか見当たらない。教授に相応しい見識があるかどうかは知らないけど、浪人中の(政治)生活を支えていたのは加計学園だったことは確かだ。その肩書きも含めて。
 
 「忖度」という言葉が今回の件ではやったけれど、一番それにふさわしい動きをしたのは萩生田にほかならない。
 策士は自ら動かない。この官房副長官は、官僚の秘書官に愛媛県関係者や加計学園関係者と面会するよう指示した(だけ)なんだろう。
かくして「加計学園の理事長は首相とゴルフをする仲だ」→「首相案件」と関係者の間で自動翻訳されていった。
 官僚は頭がいいから、「首相案件」などという直截的な言い方はしない。しかし雑談の中で、「この前、首相と理事長はいっしょにゴルフをなさったそうです」などど「事実の表明」をする。すると誘致したい前のめりの愛媛県の担当者は、それを勝手に「首相案件だ」と自分たちに都合のいい方に受け取る。それがペーパーになり、関係省庁を陳情して回る時の「水戸黄門の印籠」と化した。

 どうでしょう。こんなに説得力ある想像・推察はあるでしょうか。

 この事案は請託があり、お金が動いたという訳ではない。その意味では事件化は難しい問題だが、物事はこうして決まっていった。そういうことだ。

 だから野党がどんなに攻めても、官僚を証人喚問しても、「事実」はなにも出てこない。だってみんな「忖度」して少しずつ「首相案件」になったのだから。

 それにしても、なぜかメディアは萩生田を追及しない。何かあるのか。官房副長官を攻めると官邸の情報がとれなくなるからなのか。一番の疑問はそこだ。
 

2018年3月31日土曜日

軽薄 安倍昭恵の罪。でも財務省文書改ざんより、文科省の方が「民主主義の危機」的問題だ。

netより「引用」
国家予算が(もちろん借金も含めて)100兆円に迫ろうとしている中、「8億円の値引き」は、財務官僚にとって、ちりにもならない額だったに違いない。それをオカシイと思わない“金銭感覚”は、問題だろうけど、おそらくそういうことだ。
 
「土地を処分するなら、首相夫人が関係しているらしい所に、“多少”値引きしても売り払ってしまえ」ば、お役所的には、『事案』が終了する。「いつまでも引きずっておくよりいい」と考えてもおかしくない。
netより「引用」
日々、事務仕事をしていると、次々と湧いてくる種々様々な「事案」を処理していくことが、ルーチンワークだ。また、そうして事案を終了させていかないと、身が持たない。少しでも事案の数を減らすことが、事務仕事の肝要だ。長く抱えれば抱えるほと、取り組むのがイヤになってくる気持ちは分かる。だから売り払うことを急いだ。

 
 そこに、非常に軽率で浅はかな総理夫人という存在が「偶然」あった。
 安倍昭恵氏は経歴から察すると、(あえてステロタイプに表現すると)、「東京の一流お嬢様学校で小中高と過ごした」けれど、お勉強があまり好きではないのか、その系列の大学には行かず「専門学校」に進学。森永創業家一族ということで、「電通」に就職、「経歴にハクをつけて花嫁修業」をして数年で退職して、政治家一家の「岸一族」の男性と結婚した。ということだろう。週刊誌によると「大麻解禁」に熱心だという、ちょっと変わり種。あまり思慮深い人には見えないね。
 
 森友学園の「名誉校長」になったいきさつからして、ハメられたというのが案外真実だ。おそらく彼女がいくつかの学校の名誉校長を務めていることを調べていた籠池氏が、
講演会に呼んで、うまく持っていった。籠池氏のやりくちは政治家を利用するという、非常に古典的方法で「成長」しようとしているのは誰が見てもわかる。それにハメられた。
 
 もちろん、そうした“同情すべき”事情があることと、彼女の「結果責任」の問題は切り離して考えることだけれと、政治のメインテーマではないだろう。 財務省の文書改ざん問題は、その派性的な問題だ。もちろん派生的問題だからと言って軽い問題ではない。「民主主義の危機」とまで表現するメディアが複数あったけど、そういう側面も確かにある。

 財務省の文書改ざん問題の陰にかくれて大きくは報道されないけど、文科省の前川元事務次官の講演(総合学習講師)への執拗な問い合わせ問題の方がよっぽど「大問題」ではないか。明らかに政治家、それも政権党の教育部会長の指示(圧力)で動いたことは明らかであり、当初、「新聞記事で知って」とウソをついていたことも分かっている。

 加計学園問題で前川氏が「圧力があった」と証言した時、菅官房長官は彼にしては激烈な反応をしたことからしても、こちらの問題の方が政権にとって実は大きな問題だったことが伺える。なにしろ安倍首相のお友達の学校だ。首相夫人の軽率な行動が引き起こした森友問題とはレベルが違う。

 こうしてみると財務省官僚と文科省官僚では、その力に差があることが見えてくる。ある意味で財務省官僚は強い。それは財政を握っているという力でもあろう。賢い為政者は、財務官僚にそっぽをむかれると何もできないことを知っている。予算を付けるにも国のバランスを崩さない範囲でやってもらう「さじ加減」は政治家には分からないからだ。
もちろん財務官僚も役人として生きるため、政治家におおいに忖度する。これ当たり前。(いい悪いは別にして)。

 一方、文科省官僚は、政治家に弱い。国の財布という政治家に対抗できるツールを持ち合わせせていない。官僚として生きるには、すべてにハイハイと聞くほかない。また、バカな政治家ほど「教育」に口を出したがる。

 前にも書いたけど、「教育」は、誰でも受けてきた、経験してきたことだから、自分の体験からいろいろ言いたいネタがある。思慮深くない人間ほど口出ししたがる。特に、いわゆる「右」の人はその傾向がある。安倍首相もかつてはそういう人だった。(今は封印しているんだろうけど)まあ、その意味では文科省官僚には同情するけど、政治家の圧力という意味ではこちらの方が「民主主義の危機」という言葉があてはまる。

 大手のメディアは森友問題ばかり煽って報道するけど、どうして文科省問題を軽視するのか。結局は、読まれるもの見られるものしか関心を示さない構造なんだろうね。マスコミ不信はますます募るけど。


2018年3月21日水曜日

那須雪崩死亡「事件」。こんな処分で子どもたちは報われるのか

去年3月、那須で登山講習中の県立大田原高校の生徒7人と教諭1人が雪崩に巻き込まれて亡くなった「事件」で、栃木県教育委員会は、生徒を引率していた教諭の処分を発表した。県高校体育連盟登山専門部の責任者、大田原高校の猪瀬修一教諭(51)と副委員長で犠牲者が出た班を引率した真岡高校の菅又久雄教諭(49)が停職5カ月。計画作りに携わった栃木高校の渡辺浩典教諭(55)が停職3カ月。などだ。処分理由は「講習会を安全に実施すべき立場にありながら、その責任を果たさなかった」とした。この3人は登山講習会の責任者で、当日は悪天候のため予定していた登山を中止し、3人で相談して登山から雪上訓練に切り替えた。そして経験の浅い教諭が引率するグループが雪崩に遭った。
 定職5か月という処分が、県教委として重いのか軽いのかは、門外漢が軽々に判断することはできない。が、それで子どもたちは報われるのか。
 講習会登山は、一般の登山とは違う。参加した高校生たちは、基本的に講習会の責任者の指示どおりに行動する。危険だと思っても、自分は行かない、止めるという判断ができないと考えるのが普通だ。また講習会に参加するというのは、危険への判断がまだできないというのが前提だろう。だから責任者の判断は重い。非常に重い。
 以前にも書いたけど、講習会登山の参加者はバスにのった乗客だ。バスの運転手には、乗客を安全を確保する格段の責任がある。仲間同士で車に乗っているのとはまったく違う次元の話だ。
 そうした責任感への欠如が招いた雪崩事故は、もはや事故ではなく「事件」だ。それが停職わずか5か月。私心を述べればなんと中途半端な処分だろうか。所詮、教育委員会という身内が下す処分だとしか思えない。いま教師が、たとえば飲酒運転で接触事故を起こせば、間違いないく懲戒免職かそれに近い処分になるだろう。たとえけが人が出ていなくても。そうした状況に比して、この処分はどうなのか。責任は軽いと言っているようにしか見えない。彼ら教師たちに「悪意」はなかっただろう。しかし登山経験者だからこその油断、講習会という場に臨む気構えが欠如していた。
 (この項続く。時間切れ)

Avema TVのバカ その2 若手棋士の魅力

 ネットのAvemaTVの将棋中継の「面白さ」について、以前書いた。「将棋観戦ファン」としてはこれほどのものはない。NHK-BSが将棋や碁の中継をやめてしまう中、このネット中継はおそらく確かなファンをつかんでいるだろう。(逆にNHKは将棋観戦ファンという衛星契約者を逃してしまった。)
 ナマを見逃しても「You Tube」で解説者の「初手から解説」を見られる。このおかげで仕事中の視聴を(少しは)ガマンできるようになった(笑)。

 AbemaTV将棋中継でもうひとつよかったのは、若手の棋士たちを多く知るようになったことだ。結構魅力的な若手がたくさんいる。女性棋士もナマの声が聞けて面白い。
 先日、藤井聡太と対戦してリベンジされた(失礼)三枚堂さん。母親も、かつてNHK杯の解説もやっていた女流棋士の藤森さん。ほかにもたくさんいる。藤井聡太の連勝を止めた佐々木勇気さんなど。もともと頭のいい人々だから、慣れると話上手になり、解説も雑談も面白い。彼らにもっと将棋の面白さを広めてほしいね。
 
 もう若手ではないのかもしれないけど、山崎8段が、雑談で結婚生活について来かれて、「これも一局」と言っていたのは笑ったね。この人はかつてNHKBSの将棋中継で、矢内女流を相手に、「この手が当たらなかったら矢内さんをあきらめます」と言って、楽しい中継にしてくれた人だ。たまたま見ていた。こういうウィットはTVには必要だ。

 木村一基9段だけではない、将棋界の面白い面々。これからもAvemaTVのファンであり続ける。でも仕事の邪魔だ!。AvemaTVのバカ。





2018年2月24日土曜日

立憲民主党の「原発ゼロ法案」、自民党「受動喫煙対策」どちらも「大衆迎合」政治にしか見えない。

理想は高ければ高いほどいいのだろか。それともただ、支持者へのアピールでしかないのか。
立憲民主党の「原発ゼロ法案」の内容には、がっかりだ。まあリベラル政党として、その支持者にむけて「アピールしました」というだけに見えてしまう。

印象としては、高い理想を「基本理念」として掲げる一方、法案としての体裁を整えるために、〇〇を推進、〇〇の措置を講ずる という表現で、いかにも政策推進を促す構成になっている。しかし内容としては、ひとことで言えば稚拙としかいいようがない。

基本理念で「電気の安定供給を計りつつ・・」「原子炉を効率的に全て廃止」、「電気の需要量を減少させるとともに」「再生可能エネルギーの電気割合を増加」と謳っている。

では、どうやって、「地球温暖化に配慮しつつ」電気の安定供給を計るのか。そのためのどうやって政策を推進すのか、さっぱり見えてこない。

 大きく言えば、地球上の様々な課題の中で、非原発だけを取り出して論じているとしか見えない。
政策とは、法律によって民間の動きを誘導してうくことであろう。その体裁をとっているが、とても実効性ある法律には、私には見えない。

原発を「効率的に」ゼロにするのは、ある意味では簡単だ。安い石炭、また石油や天然ガスの火力発電を自由に行えるような規制緩和を行えば、原発なんてなくても十分必要な電気は賄えるだろう。当面はね。化石燃料がダメだというなら、太陽光や風力発電を優遇する措置は補助金をたくさん出せば、それも進むかもしれない。日本じゅうの畑や水田をつぶして、また休耕田を政府が高く買い上げて、そこに太陽光パネルを敷き詰めれば電気はたくさんできるかもしれない。
同様の政策は現政府もさまざまやってきてはいる。ここでは詳細は書かなけけど、推進にはさまざまな課題も見えてきて、そうそう加速度的には進まないのも確かだ。
 
  高い理想は、それはそれでよい。しかし現状の冷静な理解や国民の“豊かさ“への渇望など様々な要素を斟酌した上での法律でなければ実現化への意味はないだろう。これでは、自分たちの支持者=リベラル派、非原発派へのアピールでしかないように思う。多くの国民への支持は広がらないだろう。だからメディアも、野党第一党の法案でもあまり多く取り上げない。なんとなくこの稚拙さを感じ取っているのだと思う。
  枝野さん、どうでうすか?

一方、自民党の部会が了承した「飲食店の受動喫煙対策」にも驚きだ。客室面積100㎡以下、資本金5,000万円以下の「中小企業」は「喫煙可」とするらしい。
100㎡の店といったら結構広い。と思いますけど。資本金5,000万円の飲食店といったら、それもまた、いち市民からみると結構おおきなカイシャに見えますけど。これでは、大資本が運営するチェーン店以外はほとんど「喫煙可」としているようにしか見えない。世界の動きへの逆行でしかないし、中小企業に配慮しすぎとしか見えない。これが「受動喫煙対策」なのだろうかね。「不満はあるが前に進めることが大事だ」という意見があり、とにかく部会が了承したという。へんなの。
 タバコの煙が大嫌いな私にとって、ほとんど無意味な法案だ。これもまたがっかりだ。
まあ、喫煙室のある飲食店にはいかないだけだけど。まして喫煙可の飲食店には絶対行かない。

喫煙者という「病気の人々」対策。もっと推進したら。それは医療費の抑制につながると思いますけど。喫煙は病気です。(かつて私も病気でしたが、この病気はなんとか40で克服しました)

「原発ゼロ法案」「受動喫煙対策」どちらも、支持者への「大衆迎合」政治にしか見えない。

(参考)
<立憲民主党 「原発ゼロ法案」>骨子(朝日新聞デジタルより“引用”)
第1 目的(略)
第2 基本理念
・電気の安定供給の確保を図りつつ、商用発電用原子炉を計画的かつ効率的に、全て廃止
・電気の需要量を減少させるとともに、電気の供給量に占める再生可能エネルギー電気の割合を増加
第3 国等の責務
・国は、これまで原子力政策を推進してきたことに伴う国の社会的な責任を踏まえ、原発に依存しない社会を実現するための改革を推進する責務を有する
・国は、改革に当たって生じ得る発電用原子炉設置者等の損失に適切に対処する責務を有する
第4 法制上の措置等
 政府は、基本方針に基づく施策を実施するため必要な法制上、財政上、税制上または金融上の措置その他の措置を講じなければならない。法制上の措置は、法律施行後2年以内を目途
第5 基本方針
(1)発電用原子炉の廃止
1.政府は、速やかに全ての商用発電用原子炉廃止を目標とする
2.政府は次に掲げる措置を講ずる
①発電用原子炉を運転することができる期間の延長を認めない
②商用発電用原子炉の運転は、原子力以外のエネルギー源を最大限に活用してもなお電気の安定供給の確保に支障が生ずる場合で、かつ有効に機能する地域防災計画が作成されている場合に限る
③商用発電用原子炉の設置の許可及び増設を伴う変更の許可を新たに与えない
④廃止するための国の関与の在り方について検討
使用済み燃料の再処理は行わない
再生可能エネルギー可燃性天然ガスその他の原子力以外のエネルギーの利用への転換を図るために必要な措置
⑦商用発電用原子炉等を廃止しようとする事業者に必要な支援
⑧立地地域における雇用機会の創出及び地域経済の健全な発展
廃炉等に関する研究開発その他の先端的な研究開発の推進支援
(2)電気の需要量の削減及び再生可能エネルギー電気の利用の拡大
①1年間における電気の需要量について、2030年までに10年の100分の30に相当する量以上を減少させる
②30年までに1年間における電気の供給量に占める再生エネルギー電気の割合を4割以上とする
第6 推進計画(略)
第7 本部
 内閣に首相を本部長とする「原子力発電に依存しない社会を実現するための改革推進本部(仮称)」を置く
第8 改革の推進を担う組織の在り方に関する検討(略)
第9 年次報告
 政府は毎年、改革の実施状況に関する報告書を国会に提出


2018年2月17日土曜日

英語版フリーペーパーまで出している八方尾根スキー場の生き残り策。蔵王は負けるね

 スキーヤーには知られた、Mt.6=蔵王、野沢、草津、八方尾根、妙高赤倉 の5か所が登録されている。(どういう訳は志賀高原は入っていない。独自路線を行っているのだろうか。)
 景気のよさを受けて、ここ数年は少しずつスキー人口も増え始めているらしいが、それでも、あのバブル時のことを思えば半分以下だろう。どこのスキー場も生き残りをかけて必死だ。
 で、田舎の蔵王と、子どもの合宿所があったことから八方尾根をホームグラウンドにしている身として、今シーズンの「観察結果」を少し記したい。

 蔵王は火山性の温泉、樹氷など魅力、八方は北アルプス(後立山連邦)を眺めながらのアルペンムードある所、ということだろうか。(八方の温泉は、深層熱水型で、地中深く掘ったら熱い湯が出てきたというものだ。(と思う)硫黄分たっぷりの蔵王の温泉とはちょっと違う。)

 先週八方に滑りに行って、英語の分厚いフリーペーパーが置いてあるのに気が付いた。ラーメン屋から、しゃれたバー、蕎麦屋までが、八方だけでなく栂池~五竜の一体のエリアが英語で宣伝されている。こういうのがあってこそ外国人も何度もやってくるのだろう。資本力がない小さな店が多いところでこういうものを発行できるのは、地域をあげて危機感があり、なんとかしようという機運があるからなのだろう。

 ただ、それだけのこと。かもしれないけど、地域をあげてリゾート地を守ろうという意気込みはなんとなく伝わってくる。オーストラリア資本の宿が増えたという事情もあるのかもしれないけどね。宿も、外国人の嗜好に合わせて「素泊まり」が可能な所も増えてきたように思う。また行こうという気にはなる。

 八方尾根スキー場は、もともと東急グループが経営していた。(という認識だけど間違っていたらだれか訂正して)。だからスキー場の中心・兎平のレストハウスは、「101」(トーキュー)と言った。それがおそらくバブルが弾けてから、八方尾根開発が運営している。これは(株)日本スキー場開発(ナスダック?に上場)という会社の子会社で、日本スキー場開発は、また(株)日本駐車場開発という東証1部上場の会社の子会社だ。東急ほど資本力はないだろうけど、なんとか頑張っている。
(余談だけど、ふもとの「おひょっくり」という居酒屋も八方尾根開発の経営。ここにも外国人客が多い。手頃な値段で夕食をとることができるお店)

 蔵王の残念な現状を、前に書いたけど、少しは他の頑張っているスキー場を視察して参考にしたらいいのに。
 蔵王は一体として頑張れない事情もある。(株)蔵王観光開発のロープウェイ、リフトと、樹氷原に行くロープウェイは東武鉄道グループ経営(ポスターにそうあった)。昔はや山形交通(ヤマコー)リフトというのもあったけど、今はヤマコー資本はないのかな。まあ、バラバラにやっていたのでは、八方や野沢に太刀打ちできないだろう。かわいそうだけど。



2018年2月10日土曜日

NHKの五輪報道には、辟易する。本当に。公共放送だけは品位を保ってほしいよね。

 韓国での冬季五輪が始まった。
テレビジョンも新聞も、当然のことながら五輪報道に厚みを増している。それはそれでよい。もともと五輪スポーツは“見世物”なのだから、それに乗ればいいけど。
公共報道の五輪報道を見ていてると、また始まったかと思ってしまう。

どの時間帯でもアナウンサーやキャスターと言われる人、また解説委員までもが、「メダルの期待がかかる」「活躍が期待される」という常套句のオンパレードだ。何の疑問も待たず、ノーテンキに口をつくアナウンサーを見ていると、テレビを消して、AvemaTVの将棋中継に行ってしまう。(実際我が家ではテレビとPCは反対方向にありPCを観ることはテレビに背を向けることになる)。

 これだけ国というものがボーダーレス化しているのに、いまだに国(国民)の競争ということを前提に報道するスポーツ報道は、化石に近い。

 個々人のスポーツ選手(最近はアスリートと言うらしいけど、すべてのスポーツ選手に当てはめるのは違うのでは?)が努力の結果、好成績を出す姿は美しい。それを観ることは有意義だし伝える意味あある。しかし五輪史上主義、メダル史上主義が報道にまで蔓延していることには相当な違和感を覚える。

 前にも書いたかもしれないけど、女子のソフトボールは五輪種目からはずれた途端、ほとんど報道されなくなった。まるで日本から消えたように。五輪以外でどんなにすばらいい試合をしてもそれはごく一部の人々しかしらない事実となる。(どうでもいいけど)。

 私自身はスポーツ観戦の趣味がないので、よく分からないけど、熱狂する人びはスポーツとして純粋に楽しみたいのか、それともひいきの人々のために熱狂したいのか、よくわからない。

 こんな中でスケートの小平や高木が「メダル」ということを一切口にせずにベストを尽くすことだけを言うのは非常に好感を持てた。こいう人々を応援したい。結果がなんであろうと。以上。

2018年2月3日土曜日

地球温暖化。「原発ゼロ法案」より「火力発電ゼロ法案」の方が先だ。

 化石燃料の消費をどう抑えるか。そのことを第一に考えるのが「安心社会」の構築の第一歩だ。 
 
火力発電所(東電広野火力)
先の総選挙で1,100万票を獲得したことを背景に、立憲民主党の鼻息が荒い。反安倍政権の“受け皿”として、一定の支持を得たことは確かだ。
 そのリベラルは姿勢から、また枝野氏自身が東日本大震災時に官房長官をやっていたこともあり、「脱原発」には熱心だ。長期的将来像として「脱原発」は賛成だ。少しでもリスクを低減させることは必要だ。しかしその前にまずやるべきことが多々あるだろうというのが率直な感想だ。
 
 野党は多かれ少なかれ「ポピュリズム」に陥らざるを得ない。人気がなければ選挙民の支持を拡大できないから。だから彼らのある種の極端な言説は大目に見る。そのことを差し置いても、でもやはり、「原発ゼロ法案」に固執することは支持できない。
電気スタンドの「その先」に想像力を働かせよ
放射能という目に見えないリスク、またどんな影響があるのかはっきり分からないことへの恐怖心。原子力というと、日本でまず思い出されるのが、当然ヒロシマ、ナガサキの悲惨な映像であり、実際、被曝者の方はまだ多くが存命で、その恐ろしさを語り継いでいる。だから大衆(=物事を深く考えずに、直感で判断する人々)が「原子力」に対して、得体のしれない恐怖心を抱くのは当然かもしれなし。
 
 交通事故で年間5,000人前後が死亡することや、自然災害で何十人も犠牲になることは、いわば目に見えることであり、直接カンケイない人々にとっては、1回見てしまえば心のどこかで、「なーんだそんなことか」と安心してしまうのは人間のいわば性(さが)だろう。

 化石燃料を燃やし続けることがどれほど怖いことなのか、特に石炭は地球環境への悪影響が大きい。それをまず止めることが、そのために自然エネルギーへの転換を促進するのは理にかなっている、と思う。

 寒波がきても暖房は着けないで我慢して。外灯はムダだから暗い道を歩くことに慣れてください。エスカレーターは動かさないので階段を歩いて。電気製品はなるべく使わないで生活して。ということを国民に呼びかけるのでしょうか。「原発ゼロ法案」を促進する人々は。まあそういうことの国民的合意(何割賛成すれば合意されるのか、その定義はないけど)があれば、それはそれで進めてください。

 しかし人間は一度手に入れた便利さをなかなか手放すことができない。それはそれ、脱原発は別問題です。と言うのは無責任な主張としか思えない。

 企業は省エネの技術革新の努力を続けてきたし、今後も続けていくだろう。そのことには敬意を表したい。しかし省エネにも限界がある。電気を使うものは使うのだ。そのことを抜きにエネルギー政策は進められない。他の項目でも書いたけど、電気自動車の普及には大量の電気が必要だ。その、当たり前のロジックを抜きにしてはエネルギー政策は語れない。

水素自動車の普及の可能性は?
冒頭に記したように化石燃料の消費を抑えることを第一に考えるのが「安心社会」の構築の第一歩だ。だから原子力を推進しろとは言わないし、そんなことを主張している訳ではない。冷静に見積もって、原子力をなくす道程は、それまでにするべきことが多くあり、息の長い取り組みが必要だということだ。

 

 リベラル派の「受け皿」になった立憲民主党だが、政権政党を目指すのなら、冷静な議論が必要ですよ。

(追伸)
「リベラル派の『受け皿』になった立憲民主党だが、政権政党を目指すのなら、冷静な議論が必要ですよ。」と、1週間前は結語としたけど、改めて考えた。
 政治・政党についてこう突き放しても、何の発展的発想にはならない。憂うべきは、野党が票を獲得するために、ポピュリズムにならざるを得ないこの大衆社会そのものだろう。彼らも実は分かっている。しかし票を獲得するにはこれしかないと開き直っているようにも思う。
 でも自民党に投票した人々の票を“奪う”には、もっとまっとうな議論で正面突破するしかない。原発に心底反対している人。消費税は上げない方が日本がよくなると心から思っている人。憲法は絶対変えない方がいいと考える人。それぞれのカテゴリーについて、メディアの政治報道はもう少し、整理して、その集団をあぶり出す努力をしてほしい。表面的な既存の政党や派閥の動きを伝えるだけが政治屋報道ではないでしょうに。それができるのがネットではなく、あえて言えばマスメディアができる調査報道そのものではないでしょうかね。





2018年1月27日土曜日

蔵王は“残念なスキー場”になり下がってしまった。残念!

「蔵王の樹氷」は知名度はあるのに生かせてない
(netより引用)
  正月を山形の蔵王温泉で過ごした。子どもの受験で2年のブランクをはさみ、3年ぶりだった。スキー人口が減って、どこのスキー場も大なり小なり青息吐息なのは、ご承知のとおりだけど、「Mt.6」の一角、樹氷を誇る蔵王は、他のスキー場に比して、「じり貧度」が更に増しているように感じた。
 
 八方やニセコ、志賀高原、野沢などは、豪州や東南アジア、韓国、中国からのスキー客を取り込む努力をして、なんとか持ちこたえている。八方尾根スキー場などは、レストハウスにいるとここは日本かと思うほど、中国語、オージーイングリッシュなどが聞こえてくる。
 
風情ある温泉街 私は行かないけど(netより引用)
  東北人の気質のせいなのか。(サービス精神があり、接客に向いているという人々ではない)それとも戦略不足なのか分からないけど。
 
 蔵王温泉の宿泊施設で一人勝ちしているのが「高見屋グループ」。純日本風の温泉宿から、かつて防衛省の保養施設だった豪華宿泊施設を買い取って運営している高級リゾートホテル風施設、団体向けの比較的安価な宿など数多くの宿を運営している。しかし高見屋以外は苦しいところが多いように見えた。特にスキー場の昔ながらの「ロッジ」はいつの間にか営業をやめて空き家になっているところが目立った。(上の台ゲレンで前など)。
 宿泊予約をネットで検索すると、正月3が日でも結構空きがあったのには驚いた。

スキー場は広くて自然を満喫できるのに
スキー場のレストハウスもじり貧だ。来客が減るとコスト削減でメニューを減らす。また従業員も減らすのでサービスも悪くなる。ありていに言えば、悪循環=負のスパイラルに入ってきたように見える。蔵王温泉観光のwebsiteでは、それぞれのレストハウスの“売り”のメニューを掲げているけど、実施には営業していないところもあったりした。(ダイヤモンドゲレンデ)

 実は蔵王には、かなり昔からジャンプ台がある(70m級=今の言い方だとノーマルヒルに当たるのかな)。女性のスキージャンプが近年脚光をあびて、蔵王でもワールドカップが開かれるようになった。スポーツニュースでも取り上げられ賑わっているように見えるが、ジャンプのワールドカップくらいではあまり客足に影響しない。第一、蔵王のジャンプ台には観客席なるものがなかった。(少なくとも筆者が山形に住んでいた1990年前後は)。また、ジャンプは見る人は(多少は)いても一般観光客でやる人はいない。ゲレンデスキー(アルペンスキー)が楽しめなければスキー場は賑わえない。

 バブル時代に新設された黒姫ゲレンデも黒姫第4リフトが「廃止」になっていた。かなり前から平日は駐車場は無料だ。90年代は土日に駐車場に入るのに2時間もかかったというのがウソのような変化だ。

 と、前置きが長くなったが、今回の蔵王で一番残念だったことを以下に記す。「ぷうたろう」というペンションは、かなり昔からある老舗の宿だ。宿泊したことはないが山形ではちょっとは有名な宿だ。場所も横倉ゲレンデのすぐ前にあり、立地もいい。(蔵王ではちょっと離れたところにペンション村がある)。

 スキー場のレストハウスが貧弱なので、ぷうたろうのランチでも食べようと入った。4人席に案内されたけど、実はこの時からちょっとヤナ予感がしていた。10人ほどの子ども連れの集団が2組あり、まだ食事が出されていなかったからだ。でもテキパキ働く(ように最初は見えた)女性がいたので、まあ食事も出てくるだろうと勝手に思ってしまった。ところがそうではなかった。
 
 30分待っても何も出てこない。40分すぎてようやく1品ずつ食べ物が出てきた。余りにも時間がかかりずぎる。ぷうたろうの食事は結構評判でそれなりにおいしい(らしい)。実際、スキー場のレストハウスで食べるよりははるかにいいけど、余りにも時間がかかることには怒りを覚えた。

 何がいけないか。
 店はなるべく売上を上げるべく(当然だろうけど)、お客を拒まない。しかし明らかに処理能力以上の注文を受けて、食事が供給できない事態になる。彼らには、「込み合っていますので、お時間がかかるかもしれませんが・・・」などと言う度量がない。明らかにスキーの格好をした客は、スキーをしに蔵王に来ている。それなりの食事もしたいけど、滑る時間もおしい。遠方から来る客はなおさらだ。

 何日も滞在する時間的、金銭的余裕がない人が多いだろう。我々もそうだ。限られた時間の中でいわば効率よく過ごしたい。でも「ぷうたろう」のスタッフにはそうした客への想像力がない。注文は受けるだけ受ける。残念は人々だ。こうした行為が、少なからず蔵王に足を向ける人を減らしていく。

 少なくともぷうたろうに、また蔵王に「また行きたい。また行こう!」という気にはならないだろう。他に選択肢がないならともかく、Mt.6 他にもスキー場はたくさんある。
単なるひとつのペンション食堂の振る舞い行為に過ぎないけど、それは蔵王温泉全体の印象につながっていく。蟻の一穴という言葉かあるけど、そういうことだ。ぷうたろう自体は、蔵王温泉で勝ち組なのかもしれない。しかし日本のスキー場全体の中で負け組になりつつある蔵王で、いくら勝ち組になったとしても、それはいわゆる「井の中の蛙」ということでしかないだろう。何年か先、この建物も、上の台ゲレンデ前のロッジのように空き家になってしまう姿を想像してしまった。悪いけど。
 
 かくして蔵王スキー場は、じり貧が続くだろう。このままでは。旅行業者は、常に客の反応をアンケートなどで収集し、評判のいいところに誘導する。スキー客の奪い合いの中ではそうしたマーケティングは当たりまえのことになっている。評判を落とすような行為はアンケートを通じて旅行業者に伝わり、新たな客には薦めなくなる。なぜなら旅行業者にとっても客にリピーターになってほしいから、評判のいい所から紹介していくのが当たり前の行為だ。

 「ぷうたろう」について言えば、1時間余り観察した限りでは、地元・山形の常連客が多いようだった。店の人の挨拶のしかたでわかる。またお酒の種類が豊富で昼間から飲む人向けの店だ。それでこれまでやってきたのだろう。我々のような一見さんはお呼びでなかったみたいだ。まあ今は常連で成り立つのならそうれでやっていけばいい。
 
 でもその常連客も人口減の中でやがて減っていく。店の人々は懸命に働いていた(と思う)。けど、それはその場しのぎ的でしかなかった。将来的に安定的にリピーターを増やしていく行為にはなっていなかった。「残念な店」だ。せっかくおいしい店なのに。


(追伸)
 テレビ東京の「街応援番組」で、先日、野沢温泉を取り上げていた。野沢も言わずと知れたMt.6の大スキー場だ。(30年以上も前の年末に、それも記録的雪不足の時に行っただけなので、実感としての記憶がないけど。)でも温泉街には外湯があり、蔵王と似た雰囲気だ。テレビ番組を見ていて、涙ぐましい努力がなんとなく伝わってきた。地道にしかし小さな積み重ねで、雪と温泉を楽しみにしている人々を内外から集めようとしている(ように見える)。テレビ番組の「切り取りの事実」であることを差し引いても、蔵王よりはマシだ。

 蔵王は地理的に不利だ。新幹線があるとは言え、長野県の野沢、八方、志賀高原の方が首都圏から行きやすいのは明らかだ。でもニセコのように飛行機を乗り継いで、しかも空港から更にバスで3時間かかるところでも人が集まることを考えると、努力不足が否めない。


2018年1月20日土曜日

ふざけんなJR東日本 列車を動かすことに固執し、乗客をないがしろにした

JR東日本・新潟支社 指令室
▽現場の列車運行係
「閉じ込められた乗客も疲労を増しています。まず乗客を降ろしてあげることを優先させましょう」
▽列車の運行責任者
「列車の運行はどうするんだ。信越線を利用している乗客はほかにもたくさんいる。朝の通勤・通学時までになんとかダイヤを正常化するのが第一だ」
「乗客は列車の中にいりゃ安全なんだ。トイレもあるんだろう」

 という会話が交わされたかどうかは知らないが、かくして、JRは、除雪車を動かすことに固執して、430人余りの乗客は15時間以上も満員の列車に閉じ込められた。中には立ったままの者も大勢いた。

 年明けの11日の夕方、新潟・三条市のJR信越線で、4両編成の普通電車が積雪のため動けなくなり、乗客約430人が車内にマル一昼夜閉じ込められた「事件」。余りにも官僚的なJRの対応にちて怒りが収まらない。

 昨日のニュースでJR東が三条市のバスの提供の申し出を断っていたことが報道されていたが、この事実に象徴されるように、JRが自分たちのメンツを最優先に行動していたことは、明らかだ。
 これまで報道されてきた経緯から、JR東は、乗客への配慮より列車を動かすことが最優先にされてきたことが分かっている。会見では除雪車の到着が翌日の午前10時前後になったことからも、それまで他の手段を考えることをしなかっことがうかがえる。
 100歩譲って、予想しえなかった積雪で列車が立ち往生したこと。通常の除雪でなんとかなると見通しが甘かったことが“許容”するとしても、その後の行動は、あまりにも官僚的、大組織的でしかなかった。
 
 おそらく列車の運行責任者=それがJRの現場のたたき上げなのか、キャリアなのかは知らないけれど=のアタマの中には列車の定時運行、今回の場合はとにかく立ち往生した列車を一刻も早く動かし信越線を正常ダイヤに戻すことしか考えていなかったのだろう。それが運行責任者にとって一番「正しい」職業的判断であり、そういう組織だからだ。運行責任者が想像したのは、乗客が救出されるシーンではなく、コトが終わった時に、上司に「列車の定時運行に向けて最大限努力しました」と報告する自分の姿だったのだろう。
 鉄道会社にとって定時運行は命より大切な掟だ。それはJR西日本・福知山線の大惨事でも明らかになっている。乗客の安全よりも定時運行が最優先される企業風土だからだ。
 除雪にあたった現場の鉄道員。除雪車を一刻も早く現場に向かわせようと努力した鉄道員。現場の人々は自分の業務として、おそらく懸命に努力しただろう。そこに悪意はなく、むしろ自らの努力を誇っているかもしれない。しかし今回の事件全体を俯瞰すると、その努力は「乗客のため」にはなっていなかったということだ。
 
 運行責任者には想像力がなかったのだろう。通勤・通学帰りの乗客が立ったまま列車に乗っていて、何時間も待ち続ける姿を。現場からの「暖房・トイレはあります。飲料水の適宜配給しています」という報告を受けて、乗客は安全に確保されている。ヘタに動かしてケガ人でも出れば、どんな批判をうけるかも分からない。そのままにしておいてよい、と。

 日本の(大)組織、特にお役所にはひとつの掟がある。それは「決められたことを守る」ことが正しい職業的判断だという。JRは言わずとしれは元国鉄。中央省庁と同様にキャリアとノンキャリがいる「官僚組織」だ。アタマのいい社員たちは常に上司がどう反応するかを念頭に行動する。そういうところだ。
 
 良く言えば、上意下達の規律が整った、統率された組織だということなのだろうが、柔軟な対応はいたって苦手だ。それは組織人として規律を破ることであり、職務に忠実は行動にはならないからだ。どうしてそういう組織になったのか、国鉄時代の組織を見ればわかるだろう。戦後、就職難の時代大量に採用した現場労働者。強い組合。鉄道を動かすには、「規則」を大量に作り、労働者を規則通りに動かす・働いてもらうほかなかったからであろう。
 (この話を書きだすと長くなるので、やめる)

 それにしても、今回の事件で乗客の皆さんの反応が、なんて優しかったことか。出てくる話は「席を譲りあった」などの美談が多く、あからさまに怒りをぶつける人の報道は見当たらなかった。これを新潟人の美徳と見るか、お人よしととるかは別として、もう少し「怒った」方がよかったんじゃないの。でないとJR東の人間は、きっとこう思うだろう。
「ほら。乗客は従順だ。列車内で待ってもらって安全でよかった。マスコミの批判は過剰だ。」だって「ぜんぶ雪のせいだ」だもん。と。



2017年12月29日金曜日

「JRスキースキー」今年のコピーはいまいちだ。言葉の力を信じないJR担当者

「JRスキースキー」は1990年に越後湯沢に開業したスキー場、ガーラ越後湯沢のキャンペーンCMだ。(Wikipedia) 
新幹線の駅からそのままスキーに行ける、東京駅から1時間余りという便利さ手軽さ、また越後湯沢という雪質がいいとされるエリアでのスキー客・スノーボード客を狙ったものである。このキャッチコピーを実は毎年楽しみにしている。今シーズンはどんな言葉で人を惹きつけるのだろうかと。

よく「言葉の力を信じる」などという言葉で、「平和主義者」と言われる方々は世界的な紛争の解決について平和的な話し合いの大切さを説く。新聞など大手メディアでも、同様の言い方で“平和主義者“を唱える。
 しかしそれでモノゴトは全てうまくいくのか。平和裏に解決することもあれば、武力でどうにかなることもある。また話し合いによる解決も背景にある武力がそれを後押ししていることもある。
「言葉の力」とは、効果的なこともあれば効果を発揮しないこともある。当たり前だけど。どんなことでも2面性はあり、単線でモノゴトを考えてはいけない。理想論を言うのは勝手だけど、それはあくまでも理想論でしかない。

で、キャッチコピーの話にもどる。
率直に言って、今シーズンのコピーにはがっかりだ。
「新幹線でスキーへ」というJRにとっての要望がストレートにコピーになっている。
しかも「私をスキーに連れてって」といいうバブル時代の有名な映画のタイトルを借りてきている。オリジナルな感じがまったくしない。これで人を惹きつけられると思っているのだろうか。(30周年であえて使ったとnetには書いてあったけどね)

 これはコピーライターが悪いのではなくて、このコピーを採用したクライアントであるJRの担当者が「言葉の力を信じていない」からに他ならない。
ストレートに言わないと「伝わらない」と思っているからだ。もっと言えば、おそらくこの担当者には言葉の感性が備わっていないし、想像力も貧弱なのだろう。

 私が一番いいと思ったのは「ぜんぶ雪のせいだ」だ。
もちろんCMは言葉だけでなく起用されたタレント、映像構成、音楽など複合的に醸成されるが、その言葉だけを取り出して評価すると、このコピーになる。スキーに行こうと思っている人間の想像力をかきたてる何かがある。そしてこのコピーを採用したクライアントの勇気も感じる。

いいコピーもそうでないものも「ぜんぶJR東日本のせいだ」

(Wikipedia より)
2017-18 私を新幹線でスキーに連れてって・いつもと違う冬も、いいもんだ。
2016-17 冬が胸に来た
2015-16 そこに雪はあるか
2014-15 答えは雪に聞け
2013-14 ぜんぶ雪のせいだ
2012-13 青春は、純白だ
2007-12 中止
2006-07 何でもありでSNOW
1999-2006 中止
1998-99 愛に雪、恋を白
1997-98 自分の雪を見つけよう
1995-97 ラクに行こう
1994-95 いい冬にしよう
1993-94 冬眠しない動物たちへ
1992-93 僕たちは寒くない
1991-92 雪男 雪女 

2017年12月9日土曜日

AbemaTVのバカ! 将棋観戦という趣味

日清月歩のweb世界では
すでに古典になった本です


かつてこのブログで、『ウェブ進化論』の梅田望夫氏の文を紹介した。梅田氏は将棋観戦ファンとしても著書も数冊ある。彼曰く、「将棋が趣味です」と言うと、何段ですかとか、強いんですか、など、必ず棋力を問われると。観戦が趣味だというと、将棋を知らない人からは不思議がられることもあると書いていた。野球やサッカーなら自らはしないけど観るのは好きだという人は大勢いるだろう。だけど将棋や碁だと、そういう人びとがいることが想像されない。でも自分も「将棋観戦ファン」であり、のめり込むという意味では唯一の趣味と言ってもいい。 
 
 ある1手が、どういう考えのもと、つまりその先をどう読み自分の勝利に向かって指された手なのか、棋士の頭脳の中味を解説してくれるのは、知的な趣味として非常に楽しい。NHK-BS放送が、将棋観戦ファンを切り捨ててから、その楽しみの場がなくなってしまった。確かにCS将棋チャンネルやニコニコ動画ではやっていたのだろうが、CSは有料、ニコニコも無料だとつながりにくく、視聴が集中する対局だとほとんどつながらなかった。
 そこに登場したのがAbemaTVの将棋チャンネルだ。注目の対局…ここ1年では藤井聡太4段の対局だろう…を余すところなく中継する。しかもとっかえひっかえ解説の「名手」が出てきて、1手の意味を深く解説してくれる。これほど思しろいものはない。
 とりこになったがために、多くの時間を将棋観戦に費やすことになった。仕事から帰って家でやらなければならないことは山ほどあるけど、結局、将棋解説を観てしまう。ア~ア。どうしてくれるAbemaTV。と、言うことで「バカ!」という叫びになる。
 
 AbemaTV将棋解説のいいところは、私のようにあまり棋力のない、初心者(将棋を覚えて50年以上たっても初心者なんて、なさけないけど)にちょうどいい解説をしてくれることだ。そのレベルのあんばいが心地よい。A級順位戦(C級2組)藤井対高野線は、夜8時を過ぎてもやっと駒がぶつかった程度というかつて見たこともないスローな展開で、夕食を食べながらずっとくぎ付けだった。急いで風呂にも入ってもまだ優劣がついていないような戦い。高野4段はすでに1分将棋だった。しかし年老いた身には睡魔があり午後11時過ぎは耐えがたい。泣く泣く寝た。朝5時すぎに起きて真っ先にネットで見たのは勝敗の行方だった。もちろん羽生さんと渡辺竜王の闘いもずっと見ていた。これもすごかったけど。
 将棋観戦ファンというのがどの程度いるのかわからない。しかしおそらくAbemaTVの創始者・藤田晋氏もそうなのであろう。だから需要があると見込んでこのチャンネルを立ち上げたのだと想像する。(AbemaTVが最近注目されたのが、元スマップの3人の72時間番組だったらしいけど、すみません、こちらには全く興味がなく何も見てません。)
 今はまだ忙しい身だけど、そのうち人生も黄昏てくると時間も多くなるかもしれない。その時もまだ将棋チャンネルがあれば、きっと1日中釘づけになることだろう。
 藤井聡太現象に、ここ1年は非常に注目されている将棋だけど、この知的で宇宙的な世界の奥深さ、面白さは尽きることがない。

面白いだけでなく、結構知的な本です
別の話になるけど、“アメリカ研究家”の町山智浩さんの『マリファナも銃もバカもOKの国』(10月に文庫になったばかり)を読んでいたら、『Pawers of Two 』という書籍が紹介されていた。ポールマッカートニーとジョンレノン、ピカソとマティス、アップルとマイクロソフトなど、ライバルがせめぎ合って驚くべき成果をあげた例を研究した本だという。森内永世名人もTV番組で言っていた。羽生さんがいなければもっとタイトルを取れただろうと思われるかもしれませんが、そうではなくて羽生さんがいたからこそ私も名人になれた、と。ライバルがいてこそ自分を高められる。この真理は多くのことに当てはめられる。改めて思うことだし、忘れないようにしたい。







2017年12月2日土曜日

コンクリート住宅を考える。

 図書館で発掘した『早くて安くて強い家 ロングホームの挑戦』は、ちょっと古いけどコンクリート住宅の基礎知識を得るのシロウトには分かりやし本だ。本の趣旨は自分が開発して特許をとったコンクリート建設の「RC-Z」工法の“広報”だけど、その点を差し引いで読んでも住宅に興味のある人なら十分役立つ。
※ただしこの「ロングホーム」はいまや倒産してない(らしい)。RC-Z工法は特許もあることから全国の工務店で引き継がれているので有効みたいだけど。

コンクリートへの誤解というのは確かにあった。かつて、当時の民主党が「コンクリートから人へ」というスローガンで政権を奪取したことに象徴されるように、コンクリート=人工物=人にやさしくない というイメージがつきまとっている。しかし安藤忠雄を出すまでもなく、コンクリートは大きな建物では不可欠な素材であり、マンションをはじめコンクリートの住宅は実は6割(この本から)あるということだ。
 コンクリートへの誤解はその材料に対する本質的なところでもある。コンクリートは実は天然の素材であることなども書かれている。(図書館で探してみてね)一方で、下記のような書籍も出されているから、ちょっとは読んでみようかと思うけど。
もうこのトシでいまさら家は建てないけど、ちょっと興味を持ってしまった、コンクリート住宅。また少し「学ぶ楽しみ」が増えた。
これからいろいろ読んでみます。



2017年11月25日土曜日

小池百合子「希望」への“失望”の本質は何か。

 社会学者の小熊英二氏が10月のアサヒの論壇で書いていたけど、歴史的に新党ブームは1回しか通用しない。それはここ数十年の日本の政治、というか選挙を見ればシロウトでも分かる。古くは新自由クラブ(河野洋平)、日本新党(細川護熙)を思い出すが、その後も新党さきがけ、・・・あとはすぐには思い出せないほどいろいろあった。
 総選挙が終わり国会が始まった中で、「希望」の失速などの検証記事がアサヒにも2日に渡って掲載されていた。解散表明から選挙までのキーマン(キーウーマン)たちの証言や動きはそれないり面白いが、アサヒも検証記事の結語は「排除」だった。でも本当に「希望」の失速は排除の論理が主原因だったのだろうか。いまだに疑問だ。
 「排除」という言葉が一人歩きして国民の支持を失ったというロジックは、単純で分かりやすい。マスメディアはそうした言説で、分かりやすさを強調する。それは裏を返せば、選挙民を単細胞の幼稚な思考しか持ち合わせていない存在と言っているようなものだ。(だからますますメディア離れが起きる)
 
 東京都議選では、トミンは、石原、(猪瀬)、升添と続く、エリート的な強引とも言える都政運営にいささかうんざりしていたところにうまくはまった。石原の強引さで唯一よかったのは「ディーゼルエンジンの排気ガス規制」だけだった。(政治家としてはシロウトの猪瀬は、ここでは無視します)。升添は、アタマがいいから、形の上では合意形成をしながら政策を進めてきたように見えた。でも本人の貴族趣味(成金趣味と言ってもいい)と育ちからなのかお金にセコイところが、結局猛反発をくらった。
 だから小池の「トミンファースト」という言葉に都民は「希望」を見出したのかもしれない。ただしそれは都民に限ったことだった。
 「希望」の失速は、都政なのか国政に関与するのか、党首としてのカオはどうするのか、など政党としてまた方針ととしての分かりにくさが、投票を遠慮する人々が予想外に多かったからではないのだろうか。「排除の論理」も確かに日本的な融和精神からはちょっと違和感があり、それがマイナスに作用したかもしれない。アサヒの検証記事では、キーマンの証言からそれをあぶりだしていたかのように書かれていたが、世論調査の分析など選ぶ方の取材・分析がまったくない、セイジ記者の読み物記事にしかなっていなかった。
 トミンファーストの時も思ったけど、今回の総選挙で最もポピュリズム的だったのは、「希望」だろう。そのことはある程度のリテラシーのある選挙民は感じ取ったのではないか。その反動が「立憲民主党」に流れたといえる。

 20歳になったその日が投票日だった息子は比例は自民党に投票したという。理由は消費税の値上げに対して一番真摯だったからだという。超高齢化社会を迎えるにあたり、消費税は20%にしなければもはや国家はやっていけないのは明らかだ。それなのに8%を10%にすることすら「見直せ」と言う人々を信じられない、支持できないというのは当然の論理だろう。
常套句の「行政の無駄遣いを正す」という言説は、それはそれで部分的には何の批判も受けないまっとうな論理だけど、それで消費税を上げないですむという論理への飛躍にウソがあり、それこそがポピュリズムだということは、まあ、少々勉強している若者には見抜けることだ。
 森本あんりさんの「宗教国家アメリアのふしぎな論理」で、反<知性主義>(反知性<主義>ではない)とポピュリズムは非常に親和性があることが繰り返し指摘されているが、その意味では、希望は最も「反知性主義的」政党でしかないということだろう。
それを分かった上で、選挙に勝ちたいがために乗っかった知性派もいただろうけどね。

 11月30日のアサヒの論壇時評では、小熊英二さんが日高六郎の言葉を引用して、看板より実態が大切だという趣旨のことを書いていた。当然のことであり、「維新」だとか「〇〇ファースト」だとか、「希望」だとか、また「立憲民主党」も含めて、看板をつけかえることで、生き延びようとする政治家、でなかった政治屋の人々にはいささかウンザリだ。「さきがけ」だとか、「みんな」とか「生活が第一」なんてのもあったっけ。
 その意味にでは変わらないのは「自由民主」と「共産」くらいかね。自民党が強い理由は案外このあたりにあるのかもしれない。
 自民党と共産党の性格の“違い”については、よく指摘されているのでわざわざ記すこともないだろうけど、現実主義者が理想主義かという違いにほかならないだけでしょ。








2017年10月28日土曜日

北アルプス・大キレット越え 還暦を前にして

9月24日~26日、今年の「夏山登山」をようやく敢行した。今回の狙いは槍岳~北穂高岳の「大キレット越え」だ。多くの人が憧れるであろう、大キレットは、テレビでも何回も取り上げられ、まあ山を少し歩いた経験のある人なら行けそうなところだけど、毎年滑落事故が何件か起きているのも確かだ。
 それなりの体力も必要だ。日数をかけて槍に1泊、北穂に1泊とできれば余裕もあろうが、2泊3日しか日程がないなかで、どうルートをとるか。結構悩んだ。
当初の予定は、東京をたつ日は涸沢に1泊し、翌日北穂にあがり、大キレットを超えて南岳小屋に入り、翌日下山というルートだった。
 19歳の息子に誘われ、後押しされて行った。

 9月24日、低気圧の去った東京を朝4時半すぎに出発、途中どういう訳か甲府盆地の手前で雨に降られるも順調に松本まで中央高速を行き、沢渡の駐車場に8時前後には到着した。時間の節約のためタクシー(定額で4,100円)で上高地へ。登山届を出し準備を整えて8時半に出発。
25年ぶりに訪れた涸沢カール 息子と
息子と逆算して涸沢を午後1時に出られればこの日のうちに北穂高岳まで上がろうと決めていた。横尾まで約11㎞の道のり。河童橋で恒例の記念撮影をして歩き始める。かなりのスピードだ。息子についていくのがやっとだ。この日のためにランニングを続け、この半年は田園調布の急坂でのトレーニングを続けてきた。すべてはこの日のためだったと心にかみしめて歩いた。 
 徳澤で小休止を入れて横尾についたのが10時半。実質2時間。地図のコースタイムでは3時間10分のところを、ほぼ3分の2の時間で行く。諏訪湖パーキングで買った大き目のパンはすぐになくなった。あとは準備してきたカロリーメイトやジェルの行動食でエネルギーを補給して10時50分に横尾を出発、涸沢を目指す。
 3年前に槍に行ったのがおよそ30年ぶり。涸沢へも25年近く行っていない。久しぶり涸沢にちょっと胸がわくわくする。少し歩くと屏風岩が見えてきた。やはりずごい絶景だ。天気も絶好。だけど先を急ぐため、あまり景色を楽しむことなく先を急ぐ。
 細い登山路を、年配のグループ登山者に「すみません」と何度も断りながら抜いていく。われわれが抜かれたはトレイルラン風の若い男性1人だった。小屋泊まりを前提に荷物は最低限にして身軽に行ったけれど、それでも私にとっては登山は1年ぶり、5月の鳥海山・山スキーからでも4か月ぶりの登山なので、やはり少しはきつい。それでも順調に行って午後0時50分すぎ、約2時間余りで涸沢小屋まで行きついた。
東京から一気に登ってきた北穂高岳山頂。翌朝

 涸沢小屋のテラスでカレー(ものすごくおいしかった)を食べてちょっとくつろぐ。目標の1時出発は無理だけど1時半には出発できそうだ。北穂高岳を目指すことは息子との間で決定された。午後1時半、涸沢小屋を出発。この日のうちに北穂まで上がれば明日は余裕を持って大キレットを越えられるし、槍までいける。
 しかし朝四時前に起きて交代で車を運転して上高地から涸沢まで一気に上がってきたので、さすがに身体はちょっと疲れている。足も張ってきた。カレーを食べてくつろぎすぎたせいか、涸沢小屋からのいきなりの急登はへばり気味だった。身体の筋肉が登山モード入るまでは時間がかかった。地図のコースタイムで行ければ午後4時半にはつける。幸い天気もいい。次第に息子に遅れながらも、なんとかついていく。少し離れると待っててくれる。必死に歩くと地図を見るのも面倒になる。すべて息子にまかせる。こちらの都合で小休止を提案できるし、遠慮がいらない分、登山パートナーとしては最高だよね。
 途中長いクサリ場があるが、登りはその脇をクサリを使わず登れる。あとは急ではあるがほとんど危ないところはない。最後の急登を登りきるり、デコボコ稜線を少しいけばひょっこり北穂高岳の山頂に出た。午後4時前だった。2時間半足らずで到達できた。
 
 山頂手前で滝谷を登ってきたという3人組に出会った。ものすごい量の登攀用具を身につけていて、見るからに「オオッ・・・!」という感じだった。
 北穂高岳小屋には涸沢からの途中で電話した。涸沢カールからは電話は通じなかったが半分ほど登ると電波が入った。北アルプスは便利になったもんだ。
 
 一度は泊まりたかった北穂高岳小屋。山頂直下の狭隘な場所に建つだけに決して広くはないが、きちんと手入れがされていて、気持ちいいい小屋だった。混雑はしていたがそれでも1人1畳は確保されており寝床も快適。枕も不織布のカバーがあり清潔。宿泊者は水や湯がタダだ。本当にいい山小屋だ。
 
 日の沈みかけるころ、小屋の北側から槍を見る。多くの人が熱心に写真を撮っていた。
素直に美しい光景だった。こういう景色を見ることができるのが、登山の喜びでもあることを改めて感じた。かなりの年配の方が思わず「ああ~生きててよかった」と言った。周囲の人が私を含めてみな笑った。それほど和んだ雰囲気だった。
 その方の夕食が同じテーブルの島だった。失礼ですけどと言って年齢を伺ったら74歳とおっしゃっていた。40代と思われる息子さんと来ていた。こちらも19と59の40歳トシの離れた親子だと、同じテーブルの人に言ったけど、そのことによって自分は何を訴えたのか、あとで考えてしまった。
 夕飯を食べるとすぐ眠くなりまもなく眠りにつく。余裕の息子は消灯の9時まで外で星空を眺めていた。
北穂からの下り。手がかりは多くそう難しくない。
翌25日(月)。絶好の天気だ。この時期夜明けの時間が5時半ごろなので朝食をとってから、日の出を見られる。
 最近、各地で「天空の宿」とか「天空のカフェ」とか流行っているらしいけど、本当の「天空の〇〇」は3,000mを越えたここ北穂高岳山荘や槍や奥穂などだろう。

大キレットは一般的なガイドは槍~南下して南岳~大キレット~北穂高岳~涸沢岳~奥穂高岳のコースで書かれている(と思う)また、テレビの“山岳番組”でもこのコースで紹介してる(ように思う)。しかし実際歩いてて、結論から言うと、北上するコースの方が、気分的には歩きやすいように思う。ヤマケイのガイドでは、槍を目指す北上コースだと、下りの方が多くやや歩きにくいと書いてあったけど、少なくとも北穂~槍で言えば、ほとんど標高は変わらないのでどのみちアップダウンはある。
長谷川ピークを見上げて、ちょっと震える(笑)

 北上の方がいいという第一の理由は、北穂からだと、まず急な下りがあるが、その後は、わりとすぐに核心部の飛騨泣きや長谷川ピークを迎えることだ。大キレットのハイライトを疲労がたまる前に通過するのは精神的にラク(特に私のような老人には)だし、景色も天気がよければ、次第に迫ってくる槍の姿を常に見ながらなので心躍るものがある。
 また、なにより長谷川ピークのナイフリッジを登りで行けることだ。下りは梯子が続くが、慣れればそう怖くない。(最低限、片手で自分の身体を支えるくらいの筋力は備えておくことが、安全のためには必要だと私は考えるけどね。そのために筋トレも行っているし・・、一応)
 どこが一番怖かったかと言われても、今はなかなか思い出せない。結構「必死」だったということだろう。あそこを緊張感なしで行く人はまずいないだろう。だからこそほとんどの人、それも老若男女が無事通過しているのだから。(事故はしばしば緊張の糸が切れたところで起こる)

おそらく長谷川ピークを過ぎた下りだ。
ともかくも、大キレット越えは写真を参考に。もっともヤマケイやガイド本の写真の方が分かりやすいけど。
 北穂高岳小屋から大キレットを越え南岳山荘までは2時間弱の道のりだっだ。渋滞もなかったこともあり、コースタイムよりいくぶん短時間で通過した。南岳山荘まで来ると一息、あとはそう難しいところもないし、槍まで歩くだけだ。もちろん途中梯子はあるけど、ほとんどが登りだったのでそう怖くない。地図のコースタイムで2時間45分。2時間ちょっとで槍ケ岳山荘に到着。ここでもカレーとうどんを食べる。
 かくして19歳の息子に引っ張ってもらって、なんとか59歳にして大キレットを越えた。それも「弾丸登山」で。

 シュリンゲで簡易のハーネスを作り一応身につけていたけど、結局使わなかった。いちいち着けていては、かえって危ない。飛騨泣きのクサリなんかものすごく太くてカラビナを通すこともできないくらいだった。

 槍ケ岳山荘でしばし休んだあと、空身で槍の山頂へ。3年ぶりだけど今回は晴天。30年近く前、妻と槍を目指した時、彼女の高山病の症状と雨模様の天気で頂上に行かずに下山しした時のことを思い出す。(この時は横尾から涸沢~奥穂にはいったけど)

 この日の宿をどこにとるか。槍ケ岳山荘はもういいかなと息子も私も思っていた。メシは悪くないけど布団は結構古くて重い。それほど心地よい部屋ではない。(以前にも書いたけど、剱の剱御前小屋と剱山荘は至近にあるためか競争原理が働き、ふとんはミズノのプレサーモ、畳も高機能のものだった。)

 それで、持っていたスマホ(妻のお古)で殺生ヒュッテとヒュッテ大槍を比較。で、後者に泊まることに。東鎌尾根を小一時間あるいて3時ごろには小屋につく。
 ヒュッテ大槍は非常に心地よい小屋だった。支配人の方も非常に感じのいい人だった。生ビールを飲む。うまい。
 翌日は6時半前に出発、東鎌尾根を水俣乗越の分岐まで行き、そこから槍沢に下り、上高地を目指す。帰りは、「お約束」の徳澤園でソフトクリームを食べ、明神から橋を渡って嘉門次小屋でイワナと蕎麦を食した。ここまで来ると、軽装の観光客も大勢いて、シャバに戻った感じだ。
 帰りもタクシーで沢渡まで行く。(定額の4100円)。沢渡で温泉に入り、そこの休憩所でちょっと昼寝してから東京へ。
 かくして2泊3日で、北穂~大キレット~槍の「弾丸登山」を無事終了した。
ああ、いつまでこうした山登りを続けられるのだろうか。人生もだいぶ残りすくなくなってきたけど。
(写真はまだ随時 足します)
このブログを見た人は、また覗いてみてください。

 
 





滝谷かな?

 
 

2017年10月21日土曜日

福井県池田町の中学生の自殺「事件」。丸山真男の「抑圧の移譲」を思い出した。僻地校での抑圧とは

 福井県池田町の町立池田中学校の2年生だった当時14歳の男子生徒が今年3月、校舎から飛び降りて自殺した問題。町の教育委員会が設置した第三者委員会は担任や副担任から繰り返し厳しい指導を受け、追いつめられて自殺したとする調査報告書を先日(10月15日)公表した。
 自殺した中学生に心から冥福を祈りたい。すでに成人したが、同様に子どもを持つ身として親御さんの無念さ、悔しさ、そして「見殺し」にした、周囲の教師や教育委員会への怨念は察して余りある。
 「死」の代償は、きちんと支払わなければならない。担任、副担任の直接の加害者だけでなく、それを許した面々の責任は、それこそ「命」よりも重い。当然の話だ。Net上には、すでに担任、副担任、校長の名前や顔写真が載っている。それはそれで今回の事態に怒りを感じる人々の溜飲を下げることにはなるが、そうした「私刑」だけでは、問題の本質には迫れないだろう。この「事件」には構造的な問題があるからだ。教師集団というヒエラルヒーの構造的問題だ。
 
 池田町のホームページによると人口は3000人に満たない。町の中学校はひとつだけだ。問題の中学校が福井県の中で「僻地指定校」なのかどうかは分からない。しかし全校生徒40人足らずしかいないとなると、片田舎の小規模校であることには変わりない。校長はそれなりの年齢だ。他校に転勤したという男性担任は30代だという(朝日新聞)。中堅になる年齢だろう。校長はまだしも担任はなかなか同じ福井県の都市部の学校にはいけなかったのだろう。同期の教師の中には県内の“進学校”で、バリバリやっている者もいる。焦りや腐りがあっても不思議ではない。そのストレスのはけ口が自殺した生徒に向けられた。もしくは、この担任は自分がいかに都会の学校に転勤できるかどうかにしか関心がなく、副担任の異常な行動に対して無関心だった。そういうことなんじゃないでしょうか。

 (ここからはまったくの想像だけど)地方公務員として一定程度の給与の安定がある中で、教師としてのいい意味での情熱が失せていたのかもしれない。俗に言う「事なかれ主義」になるか、あるいは教師とは関係ない趣味に時間もアタマもとられていたかもしれない。悪い方から言うと、ギャンブルや女性、お酒に走るもの。趣味に夢中になるものなどさまざまだ。
 
 そして女性に新任教諭の副担任。首都圏の4流大学を出て、それでも努力して地元福井県の教師の試験に「合格」した。彼女にある種の幼稚な万能感が目覚めたとしても不思議はない。悪いけどあまりモテそうには見えない彼女は、大学では地味な存在だったのだろう、それを見返したのが県の教員採用試験に受かったことだ。そして赴任した学校。男子に対してある種の「恨み」があったのかもしれない。それが「抑圧の移譲」として表れた。中学生を相手に「幼稚」な行動に出てしまった。それを自分自身でも止められなかった。
 
 校長はどうか。教師の管理職試験に“合格”し、副校長を経てようやく校長になった。この教師は校長になったことがある種の目的の達成になっていたのかもしれない。校長にも序列がある。僻地校の校長はどうみても低い方だ。定年も間近でもう意欲もなく、教師の振る舞いにまで関心はない。若い教師にいろいろ反論されると、それを跳ね返すエネルギーも持ち合わせていなかった。あわれだね。
 
 かつて愚息が通っていた公立の小学校で、毎年1度の授業参観には必ず参加した。それも自分の子の担任だけでなく、出来る限りさまざまな教師の授業を観察した。
その中で6年生の担任をしていた年配(60間近かな)の男性教師の授業を見た。なんの授業なのか忘れてしまったが、ほとんどを黒板に向かって、いわゆる板書する授業だった。時々子どもの方を振り返るがそれは、お約束の行動という以外いいようのないものだった。しかも授業内容は稚拙、いちいち教科書に目を落としてそれをなぞるというものだった。どうみても準備不足としかいいようのない授業内容だった。
 普通の感覚だと、授業参観で保護者が見に来ると思えば、それなりの準備をして臨むだろう。普段ならしなくても。その授業参観でさえレベルの非常に低い授業しかしていないということは、この教師はもうやる気を失せていることが明らかだった。ベテランはヘンに自信もある。何千回、何万回としてきた授業は適当に行って乗り切れると思っているフシがある。それは保護者の目からみて明らかだっだ。授業参観の「感想」にこのことを書いた。この教師は翌年違う学校それも違う区の学校に転勤していった。

 やる気のない教師、ダメな教師の被害を被るのは、常に子どもたちだ。都会の学校ならばそれでも子どもたちは塾に退避することもできる。しかし僻地ではそうした退避場所すらない。都道府県教委(教師は県職員)⇒市町村教委⇒学校(進学校~僻地校までいろいろ)というヒエラルヒーの中で、僻地校にいる校長も含めた教師たちの心情、やる気、能力は想像に難くない。
 もちろん僻地校だからこそと、情熱を持って頑張る教師がいることも認める。でもそういう「いい教師」は少数派だ。(だからこそ時々そうした教師はメディアの企画記事、リポートの対象になる)

 質の低い教師の淘汰の先は僻地校だった。この構造の中で起きた、大事件だった。
ついでに言うと、教育委員会は僻地校のことなんてまるっきし関心がない。中学校担当の彼らの関心は、どこの中学から県の進学校に合格できたかということだ。私立の有力校が多い大都市の都道府県は別として、フツーの県ではどこでも1,2の進学高に県内の優秀な生徒を集中させて、一流大学への進学実績をあげようと必死になっている。それは将来県職員、または中央省庁の役人になり県のために役立って
ほしいという思惑があるからだ。先細りの人口の中で、その傾向はますます強くなっているだろう。僻地校の教師の質の問題なんか、2の次、3の次にならざるを得ない。それが現実だ。優秀な教師は進学校に集中する。次は生徒の全体レベルを上げるため大規模に配置される。それはある意味で自然な流れだ。それからこぼれた教師たちが僻地校で“頑張って”いる。中にはヘンな頑張りをする教師がいても不思議ではない。

 「抑圧の移譲」からずいぶんそれてしまったけど、書いているうちに、今回の中学生の自殺の問題は、実は僻地校問題ではないかという思いに至った。
(タイトルをちょっと変えました)  
 
「超国家主義の論理と心理」

2017年10月16日月曜日

那須雪崩事故、高校生8人死亡。「事故の責任」を「再発防止」にすりかえるな。最終報告から

右・猪瀬修一教諭(NETより「引用」)
今年3月、那須連山の茶臼岳で、急斜面をラッセル訓練させられていた高校生らが雪崩に巻き込まれて8人が死亡した事故。検証委員会は本日(10月16日)、最終報告を出した。事故の最大の要因は組織の「危機管理意識の欠如」だとしたうえで、「引率した教員は斜面を登るにしたがって雪崩が起きる危険性を認識できたはずだ」と指摘した。
 当然すぎるくらいの報告だ。しかし検証委員会の人間は、会見で「再発防止につなげたい」と締めくくっていた。
 事故の責任を「再発防止」にすりかえてはいけない。改めて言う。まず業務上過失致死で、ふもとの旅館でぬくぬくと温まっていた栃木県の高校体育連盟の教諭を逮捕すべきだ。バスを運転していて重大な過失で乗客が8人死亡したら、まず逮捕されるだろう。なぜ危険な訓練を行って高校生を死なせた教師が逮捕されない。どうみても法の下の平等とはいえない。登山、それも雪山の山行が、登山をしない者には分からないという事情もあるだろうが、それは勉強不足、認識不足と言わざるを得ない。
 子どもたちの命を預かっているという意識の低い教師たちは、正しく罰せられるべきだ。ニュース報道だと、検証委員会の最終報告を受けて、「警察は、こうした報告も踏まえ、引率した教員の安全管理に問題がなかったか、業務上過失致死傷の疑いで早ければ年内での立件を目指すことにしている」と、言うが、書類送検、在宅起訴などと生ぬるいことは許されない。きちん今後の成り行きを見ていきた。

 誤解のないよう言うが、高校生が冬山に登ることを禁止したり、高校が制限したりすることは絶対反対だ。往々にしてこういう事故が起きると行動を制限する方向に物事が動く。しかし、それは絶対違う。
 危険の可能性があるからこそ、そのリスクをきちっと認識して適切に行動することが求められているのだ。そのために責任ある者は、正しく罰せられることが必要なのだ。処分を曖昧な形で決着させ、高校生登山の冬山を禁止する(すでに禁止されているとも言われている)ようなバカな対応だけは許されない。

 追記:言うまでもなく、高校生の登山活動は、小学生の運動会のピラミッドとはまったく違う性質のものだ。事故があいついだピラミッドは、子どもたちが危険を自ら回避できない状態だ。混同してはいけない。
 ピラミッドに関して言うと、一部のバカな教師が「皆で協力する心が生まれる」「一体感ができる」など安直な考えを持っている結果だ。もっと言うとああいうことをやらせると、子どもたちをコントロールしやすいのだろう。容易に想像がつく。

2017年9月16日土曜日

目からウロコのクラシック音楽。『西洋音楽史』(中公新書)の読書感想文

 いわゆるクラシック音楽は、どうしてコンサートに行って、かしこまって聞かなくてはいけないんだろう。どうして昔のモノばかり演奏するんだろう。どうしてクラシックの現代音楽って耳障りな不協和音ばかりなんだろう。クラシックとポピュラー音楽の本当の違いって何だろう。
 バイオリンを習わされていた小学校低学年のころから、実は疑問に思っていた。もう少し成長してから、メサイアや第9を聴きに行くようになってからも、それ自体は「いい音楽」=耳に心地よい音楽だと思っても、そうした疑問を払しょくできなかった。また、あえて疑問に対して深く探究しようと思わなかったとい面もる。

 しかし、この『西洋音楽史・「クラシック」の黄昏』を読んで、そうした疑問が一挙に解消されたし、それどころかクラシック音楽を、ある意味でより深く聞いてみようという気になった。すごい「良書」だ。これで900円しないんだから、非常にお得ですよ。
 
 これまで気に入った読書のあとは、読みっぱなしにせず、自分なりにノートにまとめてきた。(そんなにに冊数は多くないけど)。この本は、そうしたい衝動にかられたし、ノートというか、自分なりの年表にしてみたと思った。
 聞いている音楽がどの時代の、どういう背景で作られた音楽が知ることは、同じ音楽と聞くのでもずいぶん違う。荘厳すぎるシンフォニー、高度なテクニックが際だつピアノ曲等々。背景を知ると、単純に興味が深まる。
 まあこれは小説の「作品論」より「作家論」に近くなるという点はあり、純粋に作品論的に楽しめなくなるという面がなくはないが、クラシックのシロウトにはちょうどいいかもしれない。
 還暦を前になぜかクラシックを聴くようになったのか。2年前、風邪をきっかけに耳鳴りがするようになり、医者から「耳鳴りは一生治りませんから」と、あっさり告げられ、通勤途中に音楽を聴くようになった。
(耳鳴りは慣れると思ったより気にはならないが、それでもシーンとした部屋にいたりすと、「ああ、耳鳴りしてるんだな」と改めて思うことはしばしばだ。)

 デイブ・グルーシン、リー・リトナー、ジョージ・ベンソン等々とジャズ、ヒュージョン系を聴いていたけど、少々飽きてきたので、ここ半年はクラシックを聴いている。
 (ちなみにランニングする時はサザンやAKB48や荒井由美や中島みゆきを聴いているけど)
 けど、いったいクラシックはどこから聞いていいのかわからない。手始めは以前(と言っても20年以上前だ)購入した「ベストクラシック100」や図書館で借りた、「どこかで聞いたクラシック・ベルリンフィル」など、定番から入った。次に、各作曲家のベスト版を借りて聴く。そして次に、netにある、ご推薦の「ベスト交響曲30」などを上記から順番に聞いていく。
 てなことをやっていくと、当たり前だけどクラシックも、あまり聞いていて面白くないものも多々あることに気付く。まあ聴き方が通勤途上の読書のBGMだから、耳に心地よいものを無意識に選好しているせいでもあるけど。
 で、本の話からそれたけど、この「西洋音楽史」のいいところは、ある作曲家の生きた年代が西洋史の中でどういう時代だったか、この作曲家は、実は○○哲学者と仲良しだった、などエピソードが分かりやすいことにある。
 もちろん著者の文章のうまさ、構成の的確さなど書籍としての完成度も非常に高い。このまま高校の音楽の授業に使える、分かりやすさと深さがある書籍だ。