2017年7月8日土曜日

「トミンハイム」と「都民ファースト」て発想は同じだね

大田区多摩川の「トミンタワー」
「トミンハイム」という名称の建物が、拙宅の周囲にもいくつかある。大田区の多摩川沿いにある少し高層の大きな建物(トミンタワーと言うらしい)、目黒区の都立大学跡地のパーシモンホール脇、最近発見したのは田園調布の玉川浄水場の脇に建物もトミンハイムだった。
 『都営住宅』という言葉が「良くない」とされ、カタカナでヘンテコな和製英語だかなんだか分からない言葉にすることで、都営住宅の持っているイメージを一新しようという「たくらみ」又は「くわだて」なんだろう。
 都営住宅(市営住宅)は低所得者のために提供される住宅、都営住宅がある学区の学校は「よくない」などと言われる。それが本当かどうかしらなけど。そうした風評をぬぐいさる手立てとして「トミンハウス」なる名称が誕生しただろうことは、想像に難くない。そのことを
 で、これって『都民ファースト』とは、発想や構造がまったく同じじゃないか。言葉をおしゃれにすることで、大衆に「夢や希望」(実は幻想なんだけど)を与えて、期待を持たせる。実態を覆い隠す。
聞きかじりのにわか知識で言うと、ソシュールの言語論で言うところの、「モノが言葉を規定するのではなく、言葉がモノを規定する」(言語論的展開)ということであれば、それなりに効果はあり、為政者が次々に新しい言葉を生み出すたくらみから逃れられないのは、それなりに理解するけど。
 でも、われわれトミンはそれに惑わされてはいけないよね。

しかも「●●ファースト」という言説にはエゴイズムが内在されている。かの国の「アメリカファースト」は、それを言っている人がモロにエゴイズムをむき出してしているから、多くの他の国の人が眉をひそめている。それなのに『都民ファースト』の発想を批判する大手メディアはない。(ように思う)
でもそれは、せんじ詰めれば自分第一主義、エゴイズムということではないの?小池さん。だからと言ってこれまでの既成の自民党中心の政治がいいと言っている訳ではないけど。
 これまでの小池知事の行動は一定程度評価はする。(個人的には好かない人だけど、その思いは排除して)。でも、彼女のやっていること、やろうとしていることは、実はフツーの首長がやっていこうとしている人とそう変わりはないんじゃないかな。豊洲の問題は別として。どんな首長でも、まともな人であれば選挙民である自分の自治体の人々を優先して考える。例えば、自分の自治体にごみ焼却場がないのに他の自治体のためにそれを作る人はないでしょ。トミンハウスじゃなかった、トミンファーストとは、それを、ある意味でうまい表現で言ったに過ぎないし、繰り返しになるけど突き詰めるとそれはエゴイズムに近づいていくということだ。
 しかもこうした言葉に内在されている危険性は、言葉を適用範囲が広がれば広がるほど、曖昧になり、狭めれば狭まるほど、エゴイズムに近づくということだ。小池さんは最近「国民ファースト」と言い始めている。彼女の指す、都民、国民とはどういう人を言うのか。様々な利害関係、それぞれの思いは一様ではない。それらをひとくくりにして、言う時、その人たちの利益はぶつかるでしょ。「世界ファースト」「地球ファースト」と言ってみれば、小学生でもわかるでしょ。言葉として。
 言葉遊びに惑わされてはいけません。トミンのひとりとして、どう受け止めたらいいんだろうかね。まあどうでもいいけど。

(追記)
 ところで、ついでに都営住宅についていろいろ考えてしまった。余りに“豪華”な公営住宅ってどうなのかな。別に、貧乏人に税金で贅沢させるななんて言っている訳ではない。公営住宅を必要としている人は確かに存在するし、行政の施策として公営住宅の供給は確かに必要だろう。しかし希望する人(条件に適って)全員が入れる訳ではない。そこには入りたくても入れない人も出てくる。そうした人は仕方なく民間の住宅に入る。そこには格差が生まれる。一方トミンハイムなどの住宅に入った人はそこがあまりに立派で住み心地がいいと、収入が上がっても出たくなくなる。または頑張って稼ごうというインセンティブが沸かない。つまり勤労意欲をかえって削ぐ結果となる。公営住宅を供給する方は、(税金の許す限り)できるだけ「快適」な住宅を作ってあげようとするだろう。それが碁行政マンの人情だとも言える。けど、それが度を過ぎると公平性の観点から問題が生じる。そのさじ加減が難しい。
 豪華なトミンハイム(内は知らないけど)の存在は、平等とは、とか、公平性とはとかいろいろ考えさせられるものになるね。
 最初に戻るけど、「都民ファースト」も同じでしょ。何をfirestにするのか、よく分からない。いまのところ言葉だけが踊っている。
 豊洲に移転するけど、築地も残すという「計画」は耳には心地よく聞こえるけど、八方美人で移転推進派、反対派どちらにもいい顔しようという発想でしかないのは、フツーの人ならすぐ分かる話だ。
 少なからず都民税をお支払している立場で言うと、なんとも言い難いよね。私も都民なんですけど。

 

小型ザックに悩む。荷物を下し汗をぬぐう一連の動作が重要だよ。

グレゴリー・ズール35
登山に限らずザック(バック)は、ひとつの趣味の領域かもしれない。ハンドバックをいくつも持つ“ご婦人”でなくても、いわば洋服と同じで、その場に合わせていろいろ変えてみたくなる。特に登山用となると実用性が大事だから、その意味でしっくりくるモノが欲しくなる。愚息が石井スポーツ登山本店の壁いっぱいに並べられているザックを指して、あれ全部ほしいと言って、苦笑したけど、そのココロは分かる。(笑い)
 だからザック選びには悩む。特に歳をとってあまりノモを買う金銭的な余裕もなくなってくると、「イッピン」を決断するのにも時間がかかる。
オスプレー・ケストレル38

 と、またしても前置きが長くなってしまったけど、いまの悩みは小型ザック(35~40ℓ)ザックを何を選ぶかということだ。
 去年北岳~間ノ岳往復の“弾丸登山”をした時に背負っていったのは50Lのミレーだった。大きすぎるのは分かっていたけど、他にないからしかたない。大は小を兼ねるで、歩いたけど、やはり使いづらい思いをした。加えて、息子がだんだん成長し、私より多く荷物を持ってくれるようになってきたので、こちらは次第にラクだ。ワッハッハッ・・・。
 どうでもいいことを挿入したけど、下記にこれらのザックを、神田・神保町のビクトリア、ICI石井、などで見た感想を述べる。
グレゴリー・パラゴン38
グレゴリーはちょっと高めだけど、確かに良いザックだ。これまで購入したことはないけどね。今年の中型ザックの特徴は、オスプレーもそうだけど、背中に当たる部分を剛性の強いワイヤーでアーチをつくり、背中とザックの間を中空にして熱や汗を逃がす構造になっていることだろう。(去年はあまりよく見ていないので今年の特徴ではないかもしれないけど)。ズール35(女性モデル=ジェイイド33 or 35 もあり)は、ザックカバーも付属されている。

 ※最近のザックはカバー付属が多い。数年前まではミレーくらいしかなかったように思う。数年前、50Lザックを買う時にミレーを選んだのは肩当てに手をかけるループがあることと、ザックカバーがついていることが結構決めてになった。

オスプレー・ストラスト36
ズール35は1気室で構造的にもシンプル。両側にメッシュのサイドポケットもあり、使い勝手もシンプルに便利だ。初心者にも使い勝手がいいだろう。だから年寄にもいいかもしれない。
 ただ、はやり?の背中の中空構造は、ちょっとどうかなって思ってしまう。暑い都会で見ていると、「これはいいアイデアだ」と思うけど、山でそこまで必要かどうかということだ。
 
 確かに真夏の日中歩くとなると背中に汗をかく。しかししばらく歩いて、汗が気になたらザックをおろし、背中に風を入れて、ひと休みし。タオルで汗をぬぐってまた歩き出す、という一連の動作が山歩きには結構大事なんじゃないかと思う。一息入れるというのは、そういうことだ。次への持続性を保つために。
 
 なるべく休まず、それこそ「弾丸登山」で真夏の炎天下を歩き続けるのなら有効であろうザックの設備って、なんだろうと思ってしまう。一時の流行りにも見えてくる。

 この項目を書くに至った動機は、もちろん「書くことによって考える」ことだ。数々のザックを見て来て、悩みが増すばかり、迷いが増すばかりだからこそ、アタマを整理するために書き始めた。なかなかまとまらず3週間目に突入したけど。
 でも自分が何を書きたいのか、書くことによって分かってきた。そう、今記したように山歩きでは、荷物をおろし、汗をぬぐい、一息入れる動作、所作が結構重要だということに、気付かされたことだ。汗をぬぐう動作を軽減するザックの機能は、もしかしたら余計なにかもしれない。
 ちょっと話は飛ぶけど、村上春樹さんがエッセーで、キャスター付きバックのことを書いていた。外国旅行の経験が多い村上さんは、最近(と言ってもエッセー自体がもうだいぶ前かもしれない)、ガラガラとキャスター付きバックを“引いて”歩く人が多いことを書いていた。そして自分は、そうしたものを持たない、普通のボストンバックで行くと。なぜならばキャスター付きバックは舗装された平坦なところでは非常に有効だけれど、そうでないところでは途端に使い勝手が悪くなる。あることを立てるとあることが立たなくなく。その点ボストンバックは持てばちょっと重いけど、どこでも同じように「運べる」と、いった趣旨だったと思う。全く同感だ。
 よく1つ2役、3役の「便利商品」なるものが、紹介されるが、一時のブームはあっても不思議と定着しているものは少ない(ように思う)。結局モノには1つの機能しか持たせられないんじゃないかな。考えてみると人間も同じようなもので、作家には作家としての機能、企業経営者には企業経営者の機能、それぞれ特化した役割があって、いくつもの機能を併せ持つ人は、ごくまれにはいても、まれだということだ。フツーの人間ならば2つのことは追えないということを思い知ることが大切だね。
 
オスプレー バリアント37
で、結局最後の候補に残っているのが、ロングセラーのオスプレーのバリアントだ。50Lと37Lがある。アックスやクランポンがつけやすいなど、本格派登山家向けだ。ウェストベルトもハーネスを付けて登攀する時のために取り外しが可能になっている。ただ専門登山家でなくても「シンプルだけど機能的」な構造は、結構使い勝手がいいんじゃないかな。先祖帰りではないけど、やっぱりこれにするかな。
 レインカバーは付いていないし、ウェストベルトにポケットもないけど、どこか魅力がある。人間で言えば質素で控えめだけど隠れた魅力があるといったところかな。
実は息子が今年大学山岳部に入ってこの50Lを買った。(というかオヤジが買わされた<笑>)。使い勝手はいいようだ。39歳年上のオヤジもこの37Lに魅力を感じている。

追記:
で、結局ICIでストラスト36の青を買いました。グレゴリーも魅力だったけど、在庫がなかった。人気なんだって。


2017年6月17日土曜日

「最も危険なアメリカ映画」は米近代史の教科書だ。

 最初にアメリカに触れたのは、本多勝一氏の『アメリカ合州国』だったと思う。合衆国ではなく「州」だといちゃもんをつける本多氏の主張は確かにそうだった。そのタイトルだけでなく南部を歩くルポは、若い自分にとって新鮮だった。手元にないのでネットで調べると1981年刊となっている。すでに大学生だったのか。でも未熟な自分は、キング牧師の名と黒人解放くらいは知っていても、それ以上の具体的な出来事やアメリカの暗黒な歴史までの知識はなかった。
 
 「ドライビングMissデイジー」は、1989年の映画だ。
なぜだか印象に残る映画だ。DVDで2回観てしまった。
白人の警察官が「ユダヤ人と黒人の組み合わせか」と嘲笑するセリフが、この映画の背景のすべてを物語っていた。
『ドライビングMissデイジー』
(※追記:この印象深い映画も、見方を変えれば(町山さん的に解釈すると)、白人国家にあって、あるべき控え目で従順な、“模範的”黒人像を描いていると言えなくもない。またそういう見方はある面当たっていると思う。)

 と、前置きが長くなってしまったが、町山さんのこのアメリカ映画を分析した近著は、アメリカを知る上で、最もリアルな本だろう。この本を読んでアメリカの大衆社会のえげつなさと反知性主義の歴史が本当によく分かる。アフリカ系アメリカ人や先住民の苦難の道のりと、今も多くの白人に内在する差別意識など、一言では言い尽くせない豊富な内容だ。
 「バックトゥーザヒューチャー」や「フォレストガンプ」に隠された意図など、アメリカの現実を知ることができる。単純に感動したり、面白がって映画を見ていては、いけないことがわかる。
『さらば白人国家アメリカ』に書かれていたとおもうが、「サイレント・マジョリティー」の意味が、単に物言わぬ多数の人々という意味ではなく、アメリカでは、表立って差別意識を出せず、ホンネを言わない白人の集団を指すこと。ペイリンが言う「リアルなアメリカ人」という言い方が、白人たちを指すことなど、隠語的意味を解説してくれている。
報道では「草の根の保守」としか描かれていない(と思う。少なくともNHKニュースでは)「ティーパーティー」運動が、実はコーク兄弟に操られた運動だったことなど、それこそ「リアル」なアメリカが分かる。
 一読の価値あり。内容から言って1400円は非常にお買い得!
 

アメリカの“ルポ”というかフィールドワークで興味深いのは、もちろん渡辺靖さんの一連の著書だ。でも渡辺さんの本では補いきれないものが町山さんの本にはある。

ちなみに「アフターアメリカ」はこれはこれで、大変いい書籍だ。




2017年6月3日土曜日

春スキーの醍醐味。鳥海山ロングコース(湯の台~)

 バックカントリー(BC)スキーと言うのだろう。“最近”の言い方では。
来年還暦を迎える身としては山スキーという言い方の方がすっきりするけど、まあそれはどうでもいい。
2017年の大型連休は全国的にほぼ天候に恵まれた。5月4日、今年大学生になった息子と、鳥海山の湯の台から山スキーに出かけた。ここ数年ですばらいい経験が出来た。
登りは7時間半、下り1時間半という苦行だったけと、本当によかった。鳥海山(このブログの表紙でもある)風景を、7年ぶりにナマで見た。

※以下に記すのは登攀記録ではない。単なるスキー登山の感想記だ。そのつもりで“見て”ね。

 山形県の旧八幡町(現在は酒田市と合併)の湯の台から鳥海山を目指すコースは、道路の除雪がされていないので、かなり下から歩きださなければならない。今回は牧場地帯の上、標高660mからの登山となった。
 前日酒田駅前に宿をとり、(バイクツーリングや工事関係者向けのビジネスホテル)、朝4時ずぎに出発、1時間ほど車を走らせて湯の台を目指す。休暇村との分岐点を右折して牧場脇をしばらく行くと、すでに15台ほどの車が道端にとめてあった。この先はまだ雪が残っていて進めない。車をとめて準備にかかる。食料(コンビニで買ったおにぎりを2つづつとフリーズドライの野菜スープ。さばのレトルト、あとは行動食などだ。
息子と2人で山に行くのは何度目だろう。去年の夏の北岳、一昨年は受験で行かず。その前が剱と槍。山スキーでは月山にも行った。
 スキーとシール、ストック、息子は一応アックス(ピッケル)も持つ。クランポン(アイゼン)は12本爪と6本爪の両方を用意してきたが、6本爪を持っていくことにする。
ストックは普通のゲレンデスキー用のものだ。
 5時半前後に歩き出す。車道に雪が残っているので歩き出しからスキーをつけてシール登行を始める人もいたが、我々はスキーはかついで歩く。九十九折の道をショートカットしながら登っていくが、いまいちコース取りが難しい。ガイドブックにある「宮様コース」をうまく見つけられず方向的には(山頂を向いて)右のずれた所を登ってしまったみたいだ。それでも尾根を間違えた訳ではないので、すこしトラバースしてコースを修正すると、ブナ林を切り開いた「宮様コース」(だと思われる)ところに出た。皇室が滑るというだけで木を伐採してコースを作ってしまうということが、時代とはいいえすごい発想だ。(これで思い出したのが、もう10年以上も前のことだけど、天皇が出席する全国植樹祭を行うある県が、会場の整備のために“違法伐採”をして整えたという“事件”のニュースを思い出した)
 結構急な宮様コースをツボ足で直登すると緩やかな尾根のとりつきに出た。そこからまたしばらく登ると、滝乃小屋にたどり着く。
ここで初めてシール登行にした。結構くたびれた。登り始めから滝の小屋まで2時間半。けっこう道のりは長い。滝の小屋の裏手に出ると鳥海山の山容が一望できる。独立峰の雄大な白い世界が広がっている。空は雲ひとつない青一色だ。これほどの晴天に恵まれた登山は記憶にない(笑)。ここからはどこを登っても外輪山につけそうだ。我々は左に巻きながら尾根を登っていった。
新山方向を見る。登っている“物好き“がいるよ(笑)
  ここからのスキー登行が、けっこう長かった。遮るものがほとんどない雄大なフィールドは広くも見えるし、すぐ行けそうな気もする。しかしスキーを上へ上へと滑らせながらも意外に遠い。途中から急登になってくる。外輪山に正午まで着くことを目標にしていたが、ちょっと難しくなってきた。午前11時過ぎ、腹もだいぶ減ったので「お昼にしよう」と息子に言ったら、ちょっと「えッ」と意外なカオをされた。トホホ。でも同意してくれて、まだ登りを残しながら板をはずし靴を緩めて、休憩をとる。コンビニで買ったおにぎり2つと、お湯を沸かしてフリーズドライの具だくさん野菜スープ、アンパン、それだけでは足りずウィダーのジェル、まだまだ入りそうだけど、あまりくつろぎすぎるとその先に進めないので、我慢する。20分くらいの休憩だったろうか。ここからはアイゼンをつけて再びスキーを担いでの登山になった。
19歳になった息子と
それでも1時間ちょっとだったろうか。地図を正確に読める息子に、もうすぐだと励まされながら1時前に外輪山にたどりつく。この時の喜び、達成感は、本当に何物にも代えがたい。 この日のために、日々、嫌いな筋トレをして、ランニングをして、水泳してるんだから。
風がものすごく強かった。息子はここから伏拝岳(2035m)まで往復する。こちらはちょっと気力が出ず、そこに留まった。午後1時すぎだったと思う、シールをはずし、

もう、だいぶ下ってきたところ
いよいよ滑る。ほとんど誰もいない広大なフィールド。雪は締まっていて起伏もほとんどなく非常に滑りやすい。問題なのはこちらの足の疲れだけだ。なんて楽しいんだろう。
 適度な緊張と楽しさ、一気にという訳にはいかないけど、大回り、小回りとどんどん高度を下げていく。さっきまでいた外輪山ははるか遠くになった。
鳥海山から臨む日本海
登ってきた宮様コースを下り、ブッシュを抜けて、そして道をを歩いて1時間半ほどで車までたどり着く。ホッ。


左の写真は外輪山付近から見た日本海。このブログの巻頭写真と同じような位置からだ。
季節は違うものの、変わらぬように見える風景はなつかしい。
 でも実は、中味は変わっているのかもしれない。同じように見える水田も休耕田が増えたり、海の表面は同じように見えるけど、水産資源は激変しているかもしれない。
 山も同じだ。以前と同じようにみえるが実は異常気象の影響で植生が変わってきているのかもしれない。
鳥海山はイヌワシの生息地だ。(「だった」と、過去形かもしれない)。90年代、西武鉄道がここにロープウェイをかけようとして、大きな問題になった。人口減少、高齢化になやむ旧八幡町は本心ではかなり乗り気だった。でも自然環境保護の高まりなどで、反対運動も活発化し、結局この時は西武はやめた。その後の西武鉄道の凋落はみてのとおりだろう。あのころ、西武は東北で、第2の雫石や安比をねらっていたのだろう。秋田県阿仁町でも同じような騒動が起きた。しかしそうした時代はもう過去のものになった。
 自然を楽しむことはロープウェイをかけることではない。ただこうした自然をもっと身近に感じられる方策は、もう少し知恵を絞ってもいいかもしれないけど。


2017年5月21日日曜日

「慰安婦像問題」を解決できるのは対日強硬派の文在寅新大統領しかいないというパラドックス

慰安婦像(netより「引用」)
 ●慰安婦像問題の泥沼 韓国の新大統領に文在寅(ムン・ジェイン)氏がなった。親北朝鮮、竹島にも上陸している対日強硬派だ。日本政府は表向きは平静を装っているが、内心はこれから大変だと思っていることだろう。日本大使館や総領事館前の慰安婦像問題には心を痛めている日本人も多いのではないか。右ウィングの方々の反発は相当だろうは。むしろ村山首相時代から慰安婦問題の解決に尽力してきたリベラルな人々の方が苦慮していることが伝わってくる。和田春樹氏など(この人はかつて拉致問題を否定してちょっとミソをつけたと記憶するが、そのことは置いておく)も、総合誌に寄稿したものなどを見るとそうした苦悩がにじみ出ている。 村山首相時代の「アジア女性基金」が日本側の努力にもかかわらず韓国で否定された。安倍首相が(この方にとっては最大限の譲歩だったと思う)パククネと同意した解決策も韓国では受け入れられたとは言い難く、それどころか慰安婦像問題は収束に向かうどころかむしろ各地でエスカレートしている。
文在寅大統領(netより「引用」)

●対日強硬派だからこその“期待”
 なかなか解決の糸口が見えないこの問題を、別の視点から考えてみたい。
結論から言うと、慰安婦像問題を解決できるのは、対日強硬派のムン大統領以外にいないということだ。
 方領土問題で、対ロシア交渉を行う時、“リベラルな”民主党政権が何か言うと、保守派からは、弱腰、譲歩しすぎ、と批判され、それが世論を形成してコトが進められなかった。しかし同じことを「右翼・保守」(右翼と保守は本当は別物だからあえてこう書くけど)の安倍首相が行えば、右ウィングの人々は、安倍さんが行うのなら仕方ないとなり、世論(とそれを誘導しているマスメディア)も認める。いわゆる「保守のパラドックス」だ。
 同様のことが韓国でも言えるだろう。親日派?のパク・クネが慰安婦問題で日本と交渉したことは、韓国内では「譲歩」「弱腰」と受けとられてしまった。しかい同じことを今度が対日強硬派のムン氏が行えば、「仕方ない」となる。これもまたパラドックスだ。

●理屈や論理では納得できない人々
 だれでも多かれ少なかれ、そういう面はあろう。
オルデカが「大衆の反逆」の中で、大衆性はインテリの中にもあることを書いていた。一人の人間の中に理性と大衆性のアンビバレントな心情は混在する。
 だから、ある人において、自分に関わる多くのことには論理的に対応できても、ある事象に対して(だけ)は、理性的に考えられないことがある。慰安婦像を設置することが(長期的にみても)正しいことと思う人たちも、そうした考え一色に染まっている訳ではない。この件に関して、いわば「気が済む」ことが、大事なんだと思う。

●「気が済む」ということ
ナルシシズム、承認要求などど、心理学的に切ってすてるのはたやすい。が、そうしてカテゴライズしても問題の解決の糸口は見えない。ちょっと譲歩して、「気が済む」まで、好きなようにやってもらい、その上で、対日強硬派大統領が解決策を示すということでしか、決してこの問題は前には進まないだろう。

どう思います。




 

2017年5月13日土曜日

月山・春スキーの黄昏’(たそがれ)。スキースポーツはどこへいく

2017年5月5日の月山(ピークは姥が岳)
山形の月山は4月にオープンする春・夏スキー場だ。一般のスキーヤーがアルペン気分で楽しめるといういうことでは、全国で唯一と言っていいスキー場だろう。大型連休中は、いつも多くのスキーヤー(ボーダー)や、山頂を目指す山スキーの人、登山の人でに賑わってきた(と思う)。少なくとも、初めて月山で滑った1985年以来、いつ来ても唯一のリフトは混雑していた。
 
 2017年の大型連休、3,4,5日は全国的にほぼ好天に恵まれた。4日に鳥海山で山スキーをしたあと(これはものすごく充実した山行だった)、5日に月山に向かった。大変な混雑は覚悟の上、眺望とブナ林を楽しめればいいと考えて行った。
 
 車が行ける終着点・姥沢の駐車場がいっぱいだと、いつも麓の志津集落からバスが運行して運んでくれる。これに乗れば、帰りはブナ林の中を滑って降りてくることもできる。
酒田市(旧八幡町)の鳥海山の登山口・湯の台を8時ずぎに出発し、志津についたのは10時前だったと思う。バスはちょうど出たばっかりだったが、志津の駐車場には数台の車しかとまっていなかった。姥沢への道も制限されていない。車で上がっていくと駐車場にはまだ十分に余裕があった。身支度を整え、リフトまで500mほどの雪の中を登っていくと、リフトにも人待ちはなかった。
 どう考えてもこれまでの大型連休中の月山では考えられなかったことだ。人が少ないのは明らかだった。リフトで上に登る。月山の山容が見えると、それでも山頂を目指している人の「点」は数十人確認できた。ここ数年ゲレンデにできるコブのラインも何本かある。その意味では山スキー(登山)マニアやコブ愛好家?など、元々の山屋、スキー屋たちは、きちんと来ているようだ。しかしマジョリティとしての一般スキーヤーは目に見えて少ないということか。
 
営業していなかったリフト終点の売店
若者たちのスキー離れが言われて久しいが、大型連休を春スキーに時間を費やす人は目に見えて減ったということか。月山は、自動車専用道路の完成で、山形市内からは1時間半程度、仙台からも2時間ちょっとで行けるようになった。以前にくらべてアクセスは格段にいい。しかし人は減っている。
 
 姥沢からリフトに乗って終点までいくと、トイレと小さな小屋があり春スキーシーズン中は売店もあって、玉コンニャクやソバなどが食べられた。しかしそれも閉じていた。
混雑していないということは、訪れた人にとってはうれしいことだが、なんだかちょっとさびしい気もする。
 レジャーの多様化だとか、若者が車を持たなくなった。SNSやゲームにレジャーがシフトしているという巷間言われる言説だけでは、“納得いかない”何かもやもやを感じる。
 (世間的には変わり者?の)我が息子は山屋として、オールドスタイルで鳥海山、月山といっしょに行った。
 話はそれるが鳥海山の素晴らしい山スキーは息子の強い誘いがなければ、遠くて億劫でいかなかっただろうと思うと、息子に感謝している。(鳥海山の山スキーについては別に記録を残したい)

 月山の話にもどる。以前にも書いたけど、山の自然に触れるということは、たとえそれがレジャー気分のスキーだったとしても貴重な体験だ。自然を感じ、ブナ林の存在を認識し、いい空気を吸うことの素晴らしさを体験できれば、それはやがて、この異常気象、地球温暖化への関心、自然環境保護の大切さへの認識への向かうだろう。

 東京・山手線の吊り広告にこんなのがあった。「検索より探索」。短い言葉でなかなかいいコピーだ。まず触れてみる。一番大切だ。


2017年4月22日土曜日

那須の雪崩事故でなぜ責任者が逮捕されない。引率登山の重大な責任。

NETより「引用」
8人の高校生と教師が亡くなった、栃木県の那須温泉ファミリースキー場での雪崩事故から、1か月近くなる。その間の報道への疑問、警察の対応への疑問、そしてなによりも学校や教育関係者への疑問ますます強くなるばかりだ。
 昨日(4月21日)の夕刊で、同じ場所で7年前にも、同じ高校生の講習で雪崩事故があったこと、同じ教諭が引率していたことが報じられていた。

 路線バスや観光バスなどグリーンナンバー(営業車)が運転者の過失で何人もの人が死ぬ事故が起きたら、ほぼ間違いなくその運転者は逮捕されるだろう。新聞報道風に言えば(専門的に正確かどうかは分からないけど)、「業務上過失致死の“疑い”で、バスを運転していた●●(容疑者)を逮捕しました」となる。

 バスに乗るということは、そこに身を預けることだ。従って、運転者やその管理者は、当然に乗客の安全に気を配ることが求められる。事故を起こせば、自損事故だったとしても過失が推認されて、逮捕されることだろう。その後、釈放されたり、不起訴になるとしても、交通事故の場合は、「とりあえず逮捕」というの一般的だと思う。(間違っていたら誰か指摘して)

左上の斜面が現場?(NETより「引用」)
引率登山も同じだということが、山を知らない人々(警察関係者も含め)には理解できないらしい。自らの意志で山に登り、雪崩や滑落、落石など事故に遭ったら、それはまさしく「自己責任」だ。しかし引率登山は違う。高校生に限らず、集められた人は引率者にある意味で生命の安全を預けている期間だ。いわゆるガイド登山でも同じだ。本人が引率者の言うことを無視して勝手に行動するなど、よほどのことがない限りありえない。
 
 引率者は、集団の安全を確保する必要がある。当たり前のことだ。そこで事故が起きれば当然、責任が問われなければならない。
 
 登山のことを知らない人々は、雪崩事故は自然現象で予測不可能だと思うかもしれない。また、好きで登山しているのだから本人にも責任があると感じるかもしれない。そういう、ヤマをしらない人々の“雰囲気”が、警察の判断を鈍らせている。しかしそれはれは違う。無免許の運転手が事故を起こして乗客が死ねば、当然罪に問われる。当たり前のことだ。登山に免許はいらない、従って法的に責任はないという考えは間違っている。繰り返しになるが、引率されている人は、責任者に命を委ねているのだ。
 
 今回の事故では雪崩に巻き込まれたグループを引率していた教師も犠牲になった。ご遺族には申し訳ないけど一義的には彼に重大な責任がある。引率するということはそれだけ重い役割なのだから。しかし昨日(4月28日)のNHKの報道によると、この教師自体が、あまり登山の経験がなかったことが報じられていた。父親はインタビューに答えて、彼に引率させていた今回の登山研修の責任を問うていた。当然だと思う。
 
 この経験の浅い(剣道部顧問も兼ねていたという)教師に先頭のグループを率いらせていた、教師グループの責任は重大だ。麓の旅館に待機していたという、猪瀬修一教諭(山岳部顧問)はまず一番責任を問われるべき人物だ。それが道理というものだ。
右:猪瀬修一教諭(NETより「引用」)

 猪瀬教諭の会見の模様に謝罪の言葉がなかったとネットで批判があるようだけど、言葉で責任や謝罪を口にするかどうかという矮小化された問題ではない。重大事故そのものも当然の責任者であり、まず逮捕して取り調べられるべき存在だ。
 
 警察はなぜそうしない。同じ栃木県の「公務員」同士という甘えは存在しないだろうか。勘繰りたくもなる。

 引率登山に重大な責任があるという「知見」は、何も私のオリジナルではない。ジャーナリストであった本多勝一氏は、引率登山事故について繰り返しこのことを書いている。(本多氏のスタンスなどの好き嫌いはあるだろうが、少なくとも山に関する著述は優れている方だ)。

 繰り返す。
 栃木県高校体育連盟登山専門部会が主催した『引率登山』は、高校生たちがバスに乗っていたのと同じだ。引率していた教師らは、バスの運転手と同じ安全を確保する義務と責任がある。そのことを警察も一般市民も理解する必要がある。警察はなおも業務上過失致死容疑の疑いで捜査しているというが、少なくともすぐに家宅捜査で書類等を押収しておかなければならなかった。軽井沢のバス事故では運転手は死亡したが、旅行会社や運行会社の家宅捜査を行っただろうに、なぜ高校生が犠牲になる事故ではそうならない。

 報道も大いに疑問だ。軽井沢のバス事故では犠牲になった大学生らのことがさまざまなメディアで盛んに報道された。それだけメディアも重大なこととして、その犠牲者を同情的に報じた。それに比べれば今回の雪崩事故での報道、とりわけ山岳部顧問への報道は、少し及び腰だ。それは報道の担当者が登山そのものを知らないからだろう。勝手な「予断」をもって、自然現象、好きで山行に参加した高校生。その世話をしている顧問の先生。という構図を勝手にアタマの中で作り上げているだけだ。無知もはなはだしい。
 
 学校の会見でも、そうした「山好きの高校生を世話してあげているんだ」という雰囲気が、にじみ出ていた。猪瀬教諭という人物に「山や」としての、そして「教師」としての責任のかけらも感じなかった。

 ご遺族の方々はさぞかし悔しいだろう。告発すべきことだ。だれか力になってあげてください。

 

2017年4月1日土曜日

「本屋はじめました」は、これまで読んだ、どの「人生論」よりも心にしみる書籍だ。

 指南書と言ってしまったら、著者に失礼かもしれない。でもこの本、『本屋はじめました』(辻山良雄著・苦楽堂2017年)は、「こんな本を読みたかった」と思える書籍だ。
書店といういわば斜陽産業に、自ら飛び込んだ著者の記録は、そのまま人生の指南書と言える。これまで読んだどんな「人生論」よりも面白い。(人生論の類はあまり読んでないけど)
 著者はリブロという西武系の書店勤めから独立し、自らブックカフェを始めた。その記録だ。が、単なる記録ではない。彼が社会人としての歩みを振り返る中で、さまざまな情報が詰まっている。それを押しつけががましくなく、丁寧な筆致で、淡々と語っている。
 何か商売を始めたいと思っている人、本を読むとはどういうことか迷っている人、などなどこれから社会人として人生を歩み始める人には、本当によい“指南書”になっている。
 指南書と書くとノウハウを手っ取り早く伝授するという印象かもしれないが、この本は違う。結果として人生の指南書になっているのであって、おそらく著者は、書き始めはそんな意識は(ちょっとはあったかもしれないが)、あまりなかっただろう。彼に執筆を依頼したであろう編集者は、しかし著者の人柄と文章のうまさ、人生の方向性から、これはいい本ができると直観したと思う。
 そして出来上がったこの本。1月に刊行され2月には早くも第2版だ。(買わなくてすみません。図書館で借りました)
 著者の辻山さんの社会人としての生き方は、これから勤め人として門出する人におおいに参考になる。
 企業人として仕事をすることは、その仕事に忠実になること、つまり多くの場合、マーケティングに従い、利潤を上げることを主目的にそのように立ち振る舞うことだ。しかしその中でも、直ちに利潤に結びつかなくても自分がやりたいこと、やってみたいことと折り合いをつけて実現していくことができるかどうか鍵だ。それは本屋という仕事に限ったことではないだろう。(言うまでもないけど、やりたいことだけやってうまくいくことは世の中に皆無でしょ)
 大手の書店でも小さな本屋でも、利潤を上げるためには、マーケティングに従い売れる本を売ることに尽きるだろうが、一方でそれだけではない「何か」を追求する志がなければ商売は続かない。(続かないというのは精神的にやってられないという意味で)。

この本を読んで、いろいろなことが頭を巡った。
●これほど本屋経営のノウハウを開示してしまうのはなぜなんだろう。⇒大手書店で企業人としてやってきて、書かれたノウハウをマネするだけでは商売を続けられないこと、それなりの知識と経験の蓄積が必要なことは、著者自身がよく分かっているから、書けるのだろう。まったくその通りだ。
●著者もチラっと書いていたが、独立せずリブロで会社員を続けていたら、それはそれでこの人は成功し、リブロの経営陣になっていただろう。それほど商売がよく分かっていて、しかも書籍という教養を身に付けている人だ。
●自分でも「本屋兼喫茶店」=ブックカフェをやってみたいと、あたまの隅で考えているが、この本を読んで、逆に自信をなくした。(笑い)。経営のひとつひとつ、日々行うことが丁寧に書かれているだけに、自分にはマネできないことが、次第に分かってくるから。商売をすることの難しさも、ヒシヒシと伝わってきた。
 
 本の中に仙台の「火星の庭」というブックカフェの話が出てくる。4月から息子が仙台で学生生活をおくる。今度行ってみよう。先日、家さがしで仙台市内を歩き回って、新しい市の図書館=メディアアークの存在を知った。火星の庭は、ここで様々な企画展を行っているらしい。今度から仙台に行くのが楽しみだ。
(まだ、書きたらないけど、とりあえずアップします)
 



2017年3月4日土曜日

指南書を読んでみる。「小さな会社で僕は育つ」と「ブックカフェを始めよう」


  いわゆる指南書というのは、実践的ですぐ役立つ、お手軽本なのかもしれない。何かを始めようとしている時や、何かを身に付けたいと思っている時に、飛びつきたくなるだろう。
 「1冊でわかる日本史」(なんてタイトルが実際にあったかどうか分からないけど)や、「中高の英語が1か月で身につく」(同)なんかも、その類だし、いろんなことでお手軽本の魔力はあろう。
 実際自分もその手の本を何冊か読んでいるけど、恥ずかしくてブログには載せられない。(笑)
しかし指南書でも、そんなお手軽本ではない良書もある。

 『小さな会社でぼくは育つ』は、関西の中堅大学で経営学を教える准教授が、おそらく教え子の学生たちの多くが就職するであろう中小企業で働くことの「応援歌」として書かれた本だ。何かの雑誌の書評にあってタイトルを覚えていたところに、先週、図書館の「新しい本」のコーナーに置かれたばかりのところを見つけ借りて読んだ。
  すでに第一次定年を迎えたわが身では、これから中小企業に勤めようとしている人向けに書かれた本が何の役にたつのだと思われるかもしれない。実際、著者には少々失礼だけど、まるでパンフレットのように平易にお手軽に読めるような構成の本だ。
   通勤の行き帰りで読み飛ばすような内容だけれど、それでも1,2か所、自分を振り返るという意味でも、役に立つことは書いてある。
(どんな書籍でも、必ず1か所は「読んでよかった」と思う箇所があると信じて読むことにしている)
 著者は内田樹さんの合気道道場の門下生でもあるらしい。内田さんの著書からも何か所か引用がある。「雪かきしごと」のことは一番のエピソードだろう。
これに関して、ラガーマンの平尾剛さんの著書に出てくる、「プレーヤーズプレーヤー」についての引用が興味深い。
「彼らの魅力や能力は数値に換算することができないのはもちろんメディアやファンの目にも評価されにくい。往々にして地味なプレー。しかし彼らが率先してひきうける泥臭いプレーの数々があるからこそ、見る者を魅了するほどスピーディーな試合展開が可能になる。いろんな意味で周囲が騒がしくてもそれがを気にせず黙々と自分の役割を担うことができる。それがプレイヤーズプレイヤーだ。」(『近くて遠いこの身体』ミンマ社)

ラグビーはよく知らないし、ほとんど見ることもないけど、雪かき仕事はスポーツでもあるんだなと、感じた。チームプレーというのはこういうことなんだろうね。


もう1冊は「ブックカフェを始めよう!」。還暦を迎えたら何をして生きようか考えている身には、非常に興味ある本だった。
これも、丁寧に、カフェを開店させ、維持するためのさまざまなノウハウが、平易に書かれている。これぞ指南書という本だ。
多少、本が好きで、カフェにも興味がある者にとって、この本を読むと、「自分にもできそう」と感じてしまう。巻末に全国のブックカフェが何軒か紹介されているが、ほとんどが東京圏以外の、地方都市のものだ。何か理由があるのか気になった。


2017年2月18日土曜日

フリーズドライ食品にハマる。ためしてみましたアマノドライフーズ

 齢50を越し、運動(ランニング・水泳&筋トレ etc.)を続けるようになって外食を余り好まなくなった。体重の増加が走ることの“致命傷“になるし、身体を健康に保つことは気持ちがいいことが、文字通り(身を持って」体感しているからだと思う。
 で、仕事中の昼飯は「中食」ということになる。毎日心掛けているのは、ヨーグルト(無脂肪)とリンゴ、ゆで卵を食べてから、「食事」をすること。これだけ食べたあとに食べるのだから、そう多くは入らないし、カロリー過多にならないようにしなければならない。
 そこで目を付けたのがフリーズドライの食品だ。お湯さえあればすぐ食べられる手軽さと、カロリー表示があることがなんといってもいいし、味も悪くない。

雑炊系、リゾットパスター系、カレーと、昼ごはん向きに種類も多い。今後、山行に持っていく食料の参考にもなる。また我が家ではあまり熱心にやっていないが、非常災害時の備蓄食料としても、いい。
(言っておくけどアマノからお金をもらって宣伝している訳ではありません。)
最近、急に種類が増えたように感じる。
実はこのフリーズドライ食品の出始めのころ、WBSか何かのテレビニュースで、丸の内にアンテナショップがあることを知り、(確かKITTEだった)、何かのついでに行ってみたことがある。(もう4年くらい前かな。)
 その頃は味噌汁などが中心で、あまり種類がなかった。最近、あまり行かないけどイオンの店にアマノフリーズドライが結構多く置いてあることに気付き、試しに買うようになった。
カレーは200キロカロリー以上あるけど、リゾットや雑炊、牛丼や親子丼はほとんど120~150キロカロリーだ。
これで午後からの仕事に体がもたない時には、夕方バナナを1本食べる。
 
 ヘンは話し、トシをとってからも、外食中心に炭水化物もモリモリ食べている人で健康そうな人が周囲にいる。それはそれですごいと思う。自身は、食事に細心の注意を払っていないと、健康が保てない…カラダになってしまっている。
 夕食はゴボウとニンジンを最低コブシ1個分、ワカメかモズクの酢の物、青菜のお浸し、ヒジキなどを食べてから、魚か肉を食べ、最後は納豆とごはんを軽く1杯で〆る。
 何年もこういう食生活を続けていると、ごくたまに、飲み会などで違う食事をすると体が調子悪くなる。それだけデリケートになってしまっている。
(育ちが貧しいのか飲み会でコースで食べると残さずすべて食べてしまう。)

 これが得なのか、外食中心でも平気な方が得なのか分からない。少なくとも生来の人付き合いの悪さがますます増幅されて、孤食化が深化しているのだけは確かだけどね。




2017年2月11日土曜日

リスクとは。あなどれない飲酒を放射線被ばくから考える。

とにかく昨今は「リスク」という言葉をよく見聞きする。
原発問題、自衛隊のPKO活動、健康問題、等々、なんでもかんでもリスクがどうのこうのというのが、「高尚な議論」らしい。
誰だって多かれ少なかれリスクと付き合って生きている。リスクなどということを特に意識しなくても、『経験値』が無意識にリスクを回避してくれ、なんとか生き延びてきた。そんなもんだ。

うろ覚えだけど、内田樹さんが、分かりやすい解説をしていた。
リスク(risk)とは回避できる危険のことで、デインジャー(danger)は回避できない危険のことだと。

週刊エコノミスト(2011年10月11日号)より「引用」
今週忙しくて1週間ぶりに開いたこのPCのフォルダを整理していたら、面白い資料が出てきた。

 2011年10月の週間エコノミストに掲載されていたがんリスク比較の表だ。2011年は言うまでもなく東日本大震災のあった年であり、福島第一原子力発電所の事故と放射線漏れがあった年だ。10月というと、震災から半年余りで、放射線に関する報道でも、まだまだ混乱が続いていた頃だったと思う。今から思うと、本当に極論ばかり(左右とも)がクローズアップされて、冷静な判断能力が“市民”もメディアもまだ持ち合わせていなかった時期かもしれない。
 表を見れば、それこそ「一目瞭然」だけれど、200㍉シーベルト程度の被曝は、喫煙や大量飲酒、肥満と比べて、リスクは高くない。運動不足とほぼ同じくらいのリスクだ。100㍉シーベルトにいたっては検出不能と出ている。
 言うまでもないが、もちろん、これをもってして、原発は安全です。福島の放射能汚染はたいしたことはない。などと短絡的に言うつもりはない。太っている人、大量飲酒をする人は放射線被ばくのリスクについて語る資格はない、などとも言うつもりはない。冷静な議論が大切だということに尽きる。

 改めてこの表を見て思ったのは、アルコールのリスクだ。
こちらは公益社団法人アルコール健康医学協会のサイトに掲載されているアルコール換算表だ。
これを見ると、飲酒のリスクはあなどれないということを改めて認識する。

例えば、ワインを毎日3杯程度飲むとすると、180ml=アルコール20gなので
20g×3杯×7日間=420gとなる。
これは放射線被ばく500~1000㍉シーベルトと同等のリスクということになる。
喫煙に比べればまだ低いけど、これをどう見るか。

がんに罹患する人が人口のどのくらいいるのか知らないけど、たとえば20人にひとり(=5%)のリスクとすると、1.4倍のリスクだからこれが7%になるという理解でいいのだろうか。
もしそうだとすると、ワインを1日平均3杯飲む人に対して、「あなたは(飲まない人にくらべて)がんにかかる確率が5%から7%に上昇しています」と言ったとして、どれほどのインパクトがあるのか。
こういうことを言うと、がんのリスクを訴えてる学会の方々に叱責されそうだけど、まあそういうことなんだろうと、一般の人の多くは受け止めるだろう。
飲酒を習慣にしている人が7%のリスクを5%に下げるために、飲酒をやめるとはとても思えない。

でもこの論法を放射線被ばくに当てはめて、福島の方々に、同様に5%が7%に上がっただけですと言ったら、相当な非難を浴びることだろう。
要は絶対値ではなく、相対的で体感的、感情的な問題だということだ。
だから難しい。

ちょっと中途半端になったけど、もうすぐ9時で時間切れ。取りあえずアップします。


2017年2月4日土曜日

『トランプ現象』は面白い。自らの邪悪さを見つめ、心の「つじつまを合わせる」

寅さん「それを言っちゃおしまいよ」。

誰かがどこかで書いていたが、トランプ現象を見ていてこのセリフを思い浮かべた人は多かろう。
それほど寅さんフリークではないけど、やはり、これを思い出していた。

「一番怖いのは、誹謗中傷や罵詈雑言ではない。『本当のこと』を言うことだ」と言った要旨の言説もどこかにあったな。

本音と建て前という、心のウラオモテとはまた違う。
皆分かっているけど、それは口に出して言うことではない。というのが大人の対応だろう。でも「口に出さない」ということが、人によっては溜まりすぎるとストレスになり、発信することで発散したくなるのもまた人間だ。

 いまさら指摘するまでもなく、不寛容な社会、ネット炎上、「ホンネトーク」など、日本でもトランプと通底する現象は、いくらでもある。

 トランプのフェイク発言にマスコミは当然反応し、トランプ批判を強める。しかしマスコミ自体を既得権者、「われわれを代表していない人たち」と見なす人にとっては、それはかえってトランプを強化する方向に動くのだろう。
行動経済学の入門的な新書「『こころ』の経済学~行動経済学から読み解く人間のふしぎ」(依田高典)を読んで学んでいると、改めてそうした人間の「性(さが)」を認識する。

トランプとマスメディアの闘いが、行動経済学の『認知的不協和』に当たるのかどうかは分からないが、少なくともマスコミとのバトルが続くたびに、トランプ側は、より極端に振れているように見える。

「大人」(自分も一応オトナと思っているけど)であれば、口に出す出さないという以前に、無意識のいちに、そういうことは考えてはいけないこと。“正しくない”こととして、自分のココロの中で処理していることがあるような気がする。それは日常のちょっとしたことから、社会の大きな現象まで様々だ。
 邪悪なことが一瞬脳裏をよぎると、もうひとつ別の「自分」が、そんなことを考えちゃいけない、とささやき、思考を止める。といった過程だろうか。思ったことをポンポン口に出す(少なくともそう見える)トランプ大統領を見ていると、そんな自分に気付かされる。

トランプ現象が面白いというのはそういう意味です。

では、どう振る舞って生きるのがよいのか。それはなかなか難しい。あまりに「正しく」していると、それはストレスになり、ココロが折れることもあるからだ。
多くの人は趣味に打ち込んだり、お酒を飲んだり、騒いだり、買い物したりして、他のことで発散してココロのつじつまを合わせるのだろう。

そう「心のつじつまを合わせる」ことを論じるのが、この拙文のテーマだということが、ここまで書いて気が付いた。(この時点でタイトルを書き替えた)。

職場で難儀する問題に当たっていて、人を説得するのに苦労している時、その人のココロのつじつまを合わせてあげられる方向に持っていくことが、近道なのだろう。しかし、それってどうなの、というのが一方で思うところだ。
 論理的、演繹的に説得しても絶対考えを曲げない人をどうすか。日々、トランプ発言を見ていて、悩みを深くしてしまった。かえって私自身の「心の辻褄」が合わせられない。トホホ。








2017年1月28日土曜日

歴史と向きあう『日本書紀の呪縛』・・・「将来に向かって生きようとするものは過去に向かっても生きなければならない」

 正直に言うと、学生時代「歴史」をきちんと学んでこなかった。中学、高校を通じて日本史、世界史ともあまり好きではなかった。あのころ歴史に関する書籍もほとんど読まなかった。(読んでいたのは、もっぱらライトな小説とルポルタージュだ。)
だから歴史の基本的知識も乏しい。今から考えるとよく大学の文系に入れたと思う。(地歴の代わりに数学で受験できるところしか受けなかったけど)

 「歴史」を少しはまともに考えてみるようになったのは、恥ずかしい話、社会人になってからだ。まあそんなことはどうでもいいけど、日々生きていていつも頭によぎるのは、タイトルの言葉だ。これを知ったのは、ハーバード大学教授の入江昭さんの新書「歴史を学ぶということ」のあとがきだ。

オスカーワイルドの戯曲「ウィンダミア卿夫人の扇」から。『将来に向かって生きようとするものは過去に向かっても生きなければならない』

 メモに書きとめておいた。
時事的問題について考える時も、日常の雑事(親の介護など)について考える時も、この言葉は、生きる上で大切だ。

『日本書記の呪縛』は一気に読んだ。

 先人の研究成果を丁寧に紹介し、そこに著者の説得力ある見解を静かに記している。納得感が得られる新書だ。

 歴史に真摯に向き合おうとする研究者の誠実さを感じる。まだま解明すべき歴史の課題が日本古代史にも相当あることも分かった。

法隆寺⇒聖徳太子⇒17条の憲法 などという図式は、自分の中に刷り込まれている。中学の教科書にもそう書かれている。でもそこから“違う”ことをきちっと理解していないといけないことを改めて認識させられた。
 近代の歴史を自らに都合よく書きかえようというたくらみは、日本でも中国でも韓国でも、行われている。だから、良識的に人々によって歴史の共同研究が行われているのだろうけど、国家権力はそんなことはおかまいなしだし、偏狭な考えから抜け出せない一部の大衆の行動も同様だろう。
 APAホテルに置かれている『書籍』問題が最近話題になった。札幌・帯広で冬季アジア大会が開かれる。少なからず摩擦を生むのは明らかだ。反対に慰安婦像についても同様だろう。“良識的”な人々(リベラルな方々)にとっても、おそらく困惑している問題だろう。
 自分の考えに都合よく解釈する。これもナルシシズムの心情にほかならないけど。
 人は誰でも思いだしたくない過去もあろうだろう。しかしそれに真摯に向き合う胆力がなければ未来は開けない。