2011年12月27日火曜日

発見!上野千鶴子と橋下の酷似性

フェミニストの“教祖様”上野千鶴子の言説には、首をかしげるものが結構ある。この人は、女性対男性、または男性が女性の妨げになっているという発想以外ないのではないだろうか。その発想にとらわれているため、議論が粗雑で非論理的なものになっていることに気付いていない。

2012年12月17日の朝日紙上の上野のオピニオンには驚かされた。政治学者・宇野重規氏がホスト役のインタビュー記事だ。
宇野氏が橋下現象に対して「閉塞感と不安にかられ魅力的に見える人に全部放り投げる。その人の破壊的な言動に快感を覚える。橋下らが支持されるゆえん。」と、ごく一般的な分析をしたのに答えて、
上野は、
「追い風は吹き荒れるが、その方向は問いません。その意味で強いリーダーシップへの期待は思考停止や白紙委任につながりかねません。“ハシズム”の風には不吉な予感がします。」と言う。
「追い風は吹き荒れるが、その方向は問いません」とは論理不明な一文としかいいようがない。「追い風」とは橋下に吹くものだが、「方向性は問わない」とは彼を支持する人々を指している。つまり彼女は、大衆批判をしたいが、ストレートに言うのははばかられるので、橋下現象がいかにもワルいという印象を先に与えているにすぎない。「思考停止」や「白紙委任」をしているのは、橋下を支持する人々の方であり、それによって「不吉な予感の追い風」が吹いているのだから、はっきり大衆の側の責任を言うべきではないのか。
2012年12月17日 朝日新聞

上野は続ける。
郵政選挙で白紙委任状を与えたせいで、緩和につぐ規制緩和が行われ、格差が広がった。若者や女性は自分にしわ寄せがくる政策の推進者を支持した。最大のツケは原発事故。権力者任せでやってきた結果がこの惨状です。ここまで高い授業料を払った日本人が学ばないとすれば、どうすればいいのでしょう。」

 
この文章の論理の飛躍には、本当に驚かされる。前半は、これもまた小泉に投票した人々が白紙委任を彼に与えたと、大衆批判をして、そのツケが自らに降りかかったと言っている。


それはその通りだろうが、次の文章で原発事故について急に話が飛んでいる。
郵政選挙の結果と原発政策を同列に結び付ける乱暴な言説にまず驚かされる。原発事故については、なぜこんなことになったのか、もっと冷静で論理的な分析が必要なのは言うまでのない。郵政選挙のようにワンイシューで、総選挙を首相が行いその結果の政策が今の事態を招いたのではないだろう。本当に乱暴は論理のすり替えだ。

それぞれの事象には、それぞれの原因になる要素があり、様々な事情がからみあって結果を生んでいる。小学生でも理解することだ。上野の言説は、リテラシーのない大衆が「とかく役人は、・・・」とか、「政治家なんて・・・だ。」と十把ひと絡げでモノを言うのと同列だろう。

結局上野は、実は大衆にいら立っていながら、市民派としての自分の立ち位置を守るため、巧み(と本人が思っている)な言い回しで、無理やり論理展開しているにすぎない。これぞポピュリスト文化人の本領発揮であろう。

こうして「私は若者、女性の味方よ」と思わせる無理な論理展開をした上で、上野の批判の矛先は当然、男に向かう。
現在の改革議論は小手先の微調整ばかりで抜本的なビジョンがない。経済成長のもと、日本型雇用と近代家族のペアで支えられてきた社会システムはもう終わったんです。年齢、性別にかかわらず、働く意欲と能力のある人は一生働き続ける。ただし将来や人生を一つの場所に預ける働き方はしない。そうなるためには、日本型雇用に崩壊してもらわなければなりません。」と続く。

上野が考える「日本型雇用と近代家族のペア」とは何か、そのあとに出てくる。
すなわち「『社畜とDV妻』のカップル」だという。日本型雇用=社畜、近代家族とは=DV妻だと言うのだ。この言説に同意する人はいったいどれほどいるだろうか。あまりにもまれはケースを一般化している論理ではないか。「社畜」の正確な定義は何か私は知らないが、仮に「会社(中心)人間」であり、「DV妻」を100歩譲って「会社中心人間の夫に仕える孤独な妻」程度としても、あまりにも一面的であろう。

上野は、自分の考えに都合のよい事象のみを取り上げていかにも一般的な事象のように言い換える。これって学者の言説と言えるのだろうか。

粗雑な言い回しはここにもある。
「現在の改革議論は小手先の微調整ばかりで抜本的なビジョンがない。」
具体的にどういうことが小手先でどうすれば抜本的なんだろうか。この言葉を借りれば橋下が行おうとしている大阪都構想や教育条例の改正はまさに「抜本的」な改革を目指している。こういう方法がいいと言っているのかな。

 政権の見方をする訳でもなんでもないが、彼らは彼らの立場でなんとか折り合いのつく解決策、善後策を考えているだろう。一挙にものごとが解決する魔法の方法などないのだから。その魔法があると言いつのっているのが、ほかならぬ橋下や河村たかしなのではないか。

つぎ。
「経済成長のもと、日本型雇用と近代家族のペアで支えられてきた社会システムはもう終わったんです。年齢、性別にかかわらず、働く意欲と能力のある人は一生働き続ける。ただし将来や人生を一つの場所に預ける働き方はしない。そうなるためには、日本型雇用に崩壊してもらわなければなりません。」
この言説によって上野が何を言いたいのかよく分からない。正規雇用などというのは既得権益に他ならないから、「働く意欲と能力のある」人が「一つの場所に預ける働き方」でなくて、自由に?働く労働環境になればいいということなのだろうか。
 現在の日本の労働市場や環境は、決していいとは言えないだろう。しかし上野が言うような労働環境を望む人はそう多くはないのではないか。
「あまり意欲も能力もない」人は切り捨てられる、完全競争社会ということだから。これが上野の望む労働環境なのだろうか。

正規雇用を既得権として持っている人々が手放そうとしないから、旧モデルが延命しています。手放さない人たちの代表が連合のオヤジ労働者。政官財による共謀シナリオの労働ビックバンにも合意した。そのなかで、非正規雇用に追いやられ、最も大変な目にあっているのが若い女性たち。…家事手伝いという扱いで失業者扱いもされない。」
ここまで読んで、合点がいった。
上野は単にオヤジ批判をしたいがために、論理を飛躍させていたのだろう。

大衆に訴えかけるのに一番わかりやすいのは、敵をつくそれを叩いてみせること。小泉の郵政改革、名古屋の河村、そして大阪の橋下、内容に違いはあれどれも戦い方の構図は同じだ。そして上野の論理展開も同様である。
オヤジという若者、女性の「敵」を作り、それを批判することで、自らの考えを権威づけ支持を得ようとする点では酷似している。
こんな薄っぺらな言説を支持しる「若者」や「女性」て、それは橋下を支持する層とそう変わりばえしないのではないだろうか。それこそ宇野氏の指摘する「破壊的な言動に快感を覚える」人々に他ならない。
上野の手法は橋下と同じなのだ。単に自分のいらだちを「敵」に向けてそれで溜飲を下げているにすぎない。
私は女性の地位向上には賛成である。しかし上野千鶴子のような論理ともいえない論理で自説を押し出してくる「女性」には同意できない。
その言説を1面全部を使って無批判に展開する朝日新聞の見識を疑う。





「戦争が遺したもの」は、鶴見俊輔に、小熊英二と上野千鶴子がロングインタビューしている対談本である。
鶴見さんの言説は様々な本で同じようなことを言っている点もあり、何冊か読んでいるとちょっと退屈な面もある。
しかし小熊英二の鋭い質問や分析もあり、その点では面白い本だ。

この中で上野の言っていることにははちょっとピンとはずれなところもある。小熊は上野に批判的に言う部分も(確か)あるが、そこは大人。お仲間同士なのでうまく丸めている。

角川oneテーマ

内田樹さんの「フェミニズム批判」は、論理的でスジが通っている。この新書はフェミニズム初心者にも分かりやすい。この中で確か内田氏は、上野が論文の中で自分に都合のいい部分しか紹介しない、手法を紹介していた。(すぐ読める本ですので、ぜひどうぞ)


2011年12月22日木曜日

「サプライチェーン」。その先にいる最終消費者は“つながっている”

最近 経済用語で「サプライチェーン(supply chain)」という言葉をよく見聞きするようになった。「 供給の連鎖」。すなわち原材料の調達から生産・販売・物流を経て最終需要者に至る、製品・サービス提供のために行われる一連の流れのことを指す。

東日本大震災で東北地方の部品向上がストップすると自動車生産全体に影響したり、タイの洪水で現地の工場の停止が日本の工業製品全体に影響が出たりと、まさに生産過程が、国内だけでなく、海外の工場もふくめて「繋がっている」ことを改めて実感させられた。

普段の生活で、何かモノを購入する時、その生産はどこでどういう過程を経て製品として、いま買われようとしているのか思いを巡らすということはまれだろう。「世界の亀山モデル」と謳った液晶テレビや、フェアトレードと言ってNGOなどが売る開発途上国の製品。または産地や生産者限定で購入するコメや果物などは、多くの購入物の中では例外的存在である。

どこでどう作られようと、またそこがどんな人の手を経て手元に届くかということは、実は最終消費者にとってどうでもいいことでしかない。その製品の価格が購買者の価値基準の値段に収まっていて、機能やデザインが気に入っていれさえすればいいのである。


話しは飛ぶが、通勤電車の中で携帯ゲーム機に夢中になっている輩、スマートフォンをいじくりまわして時間を費やしている人。音漏れなぞおかまいなしの“音楽愛好家”たちに対して、他の乗客たちは、何も主張せず我慢している。なぜか。
“良識ある”新聞やテレビ局、雑誌が、「電車内では本を読め」と諭しているのをあまり見たことがない。ごく一部の“文化人”くらいだ。なぜか。
企業系シンクタンクのエコノミストが、「スマートフォンをいじくりまわしても教養は身に付かない」と主張することもない。なぜか。

考えてみれば当たり前のことだが、ゲーム機やスマートフォンや音楽プレーヤーの使用者(最終消費者)は、みなつながっているからなのだ。

真面目(そう)に日経を読んでいるサラリーマン、サラリーウーマンたち。、勤務先が電子部品会社であれば、ゲーム機のICチップを作っているかもしれない。あるいは家電メーカーの社員。あるいはそういう企業の広告を扱う代理店。みなチェーンでつながっているのだ。

だから迷惑な若者も、多くの「大人」たちにとって大切なお客様である、サプライチェーンの一番先端にいる人々なのであろう。文句の言いようがない。ただ「お買い上げいただきありがとうございます」と言うほかないのである。

エンドユーザーからサプライチェーンを逆方向にたどっていく要素が、実は通勤電車の中にあったのだ。出版産業は電子機器のサプライチェーンの前にはあまりにも小さな供給連鎖でしかない。
だんだん肩身が狭くなっていくのは必然である。

どこかの力ある出版社、あるいは出版社の連合体で電車の吊り広告を出してくれないかな。
「電子機器に夢中になっているあなた。本を読み、少しでも教養を深めなさい」と。

2011年12月8日木曜日

「市民ランナー」川内優輝への日本陸連の冷たいまなざし

asahi.comより引用

12月4日の福岡国際マラソンを終えて、五輪選手の選考を行う日本陸連の幹部が会見を行った。一言でいえば、「戸惑い」と、「川内への冷たさ」でしかなかった。

判官びいきでなくとも、市民ランナーとして自分で何でもやって日本人選手の最高位になった川内選手には、おそらく多くの人が賛美をおくったのではないだろうか。

実況中継のアナウンサーも、盛んに「埼玉県職員、市民ランナー」を連呼し、強調していた。
反対に、解説の瀬古利彦は川内にちょっと冷ややかな印象を受けた。


瀬古は日本陸連の理事。母校早大陸上部(駅伝)の監督や所属のSB食品の監督だ。しかし瀬  古自身が企業のお抱え選手として「万全の態勢」で臨んだロス五輪では惨敗した。
(瀬古についてはウィキペディアを参照されたい
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%8F%A4%E5%88%A9%E5%BD%A6 )
  高校時代から将来を嘱望された存在であり、長距離のいわばアリーと教育を受けてきた。ソウ   
  ル五輪では彼のために選考レースが加わったなどと揶揄された。しかし東京都の教育委員を
  勤めるなどちゃくちゃくと肩書きにハクを着け、日本陸連の王道を歩んでいる。


川内は五輪代表選考レースである東京マラソンにも出る意向を示した。しかし代表選考レースで
1位(日本人として)の選手が別の選考レースに出るのは異例のことらしい。次で負ければ元も子もなくなる、福岡の記録が台無しになるということらしい。
 今後の選考レースを静かに見守っていれば、かなりの確率で代表に選ばれるだろうに、自分が納得しないから、東京マラソンに出るという心意気は買いたい。

ネットから見られるニュースからは陸連幹部が川内本人と話し合い、東京マラソンに出ることを「容認」したと伝えている。(中日スポーツ、スポニチ等)。

どちらも陸連幹部の発言の引用部分は同じで「好きなようにやったらいい」 と言われたそうである。中日もスポニチもどちらもこれを好意的に取り上げ、「陸連もお墨付き」という表現まで使っている。NHKはweb newsを見ると、陸連が「代表選考レースとしては非常に厳しい内容だった」と述べていると伝え、陸連がこのレース結果では代表にするかどうかわからないと予防線を張っている。


一連の報道や、5日夜のNHKスポーツニュースでの陸連会部の会見の模様の表情からは、陸連の冷たさが伝わってくる。ホント。
「好きなように・・・」という突き放した言い方、記録的には厳しい(これは本当だが)からは「容易には川内を代表にはしないぞ」という意思が伺える。 


日本陸連は、なぜこれほど川内に冷たいのか。
それは、彼が日本陸上競技連盟という「ムラ社会」の外にいる人間だからだ。

陸連は自分たちの仲間内の有望選手を五輪に送ってメダルを取らせることしかアタマにない。


高校駅伝の有望選手は、大学も駅伝有望校に進み、そこで実績をあげて実業団陸上部。ほとんどプロ選手として生活保証を受けて専属のコーチの下、科学的トレーニングとり理想の食事、そして高地トレーニングの環境も授けられる。のだと思う。瀬古自身もほぼそういうコースの人間だ。
陸連を頂点とするムラ社会を形成し、そのことで存在感を示していく。ムラにはボスがいて、全体を統率する。ここの掟から外れては将来日本陸上界の出世の階段は望めないのだろう。
瀬古はその王道を行っているのだろう。

こうしたムラ社会(それは「世間」とも言う)の中から有望選手が五輪で金メダルを取ることだけが、関係者の願いだ。外様の選手が代表になるだけでも、陸連が面目がつぶれるのに、もしメダルでも取ろうものなら、税金もつぎ込まれている陸連運営にも影響する。
陸連にとって川内選手のように自らの力で登りつめてきた人間は、要するに目障りなのだ。おカネもかけて大切に育ててきた選手を五輪に送り込みたいという“魂胆”がありありだった。

なんとも分かりやすい人々だ。陸連の面々は。
この人たちの人間的ないやらしさは、私は容認できない。

大きな背景には、日本の大衆が、「五輪で金メダル」をいつもスポーツ選手の至上命題として強いていることがあろう。「メダルの期待」というプレッシャーは、選手だけでなく、いやむしろ関係者の方が重荷なのかもしれない。
「国威発揚」というきな臭い言葉が、こと五輪スポーツには感じずにはおれない。

川内さん、陸連のムラ社会に負けるな。あまり見るスポーツは好きでない私だが、彼のことは応援する。埼玉県は彼を休職させるか、異動させてもう少しトレーニングができる環境に置いてあげればよい。国体開催権ではジプシー選手を県の外郭団体(スポーツ振興財団など)に雇って、総合優勝の点数稼ぎに使っているではないか。それにくれべれば、納税者の批判は少ないと思う。


そしてもうひとつ、メディアへの苦言。
スポーツ新聞は、陸連寄りの記事しか書かないのか。おそらくネタ元に睨まれると商売にさし障るからだろう。中日スポーツ、スポニチの記事にはがっかりした。(本誌を読んでいないので、詳細はわからないが。)

また、川内を市民ランナーとして持ち上げるのなら、企業選手と川内がどれほどトレーニング環境が違うかといった具体的な記事を読みたかった。
大会翌日の主催新聞社・朝日の記事を仔細に読んだが、そうした記事は見当たらなかった。
「25㌔で遅れたが、気力で挽回した」というステロタイプな、単純で中身のないスポ根解説を読まされただけだ。取材不足ですよ、朝日さん。主催者なのに。

市民ランナー川内の記録はもっと伸びる(はずだ)

ヒトの肥満度を表す指標として、身長と体重の関係から算出される「ボディマス指数」というのがある。通称BMIと言われ、多くの人が健康診断などで計算したことがあるだろう。、身長と体重の関係から算出される、22が標準とされている。BMIは、
\mathrm{BMI}=\frac{w}{t^2}
で表される。「t」は、メートルで表した身長、「w」は体重(㎏)


12月4日の福岡国際マラソンは、来年の五輪代表選考も兼ねていることから、(一部の人には)注目されていた。私も少し「走る」身なので、少なからず気になって、見てしまった。
下記の表は、公式サイトに載っていた招待選手の体格に、計算式を入れてBMIとまた標準とされる体重との差を計算したものである。
放送では紹介する選手の体格を表示していたが書きとめなかったので、優勝した「一般参加」のジョセファト・ダビリ選手やジェームス・ムワンギ選手までは分からない。


選手名順位年齢身長体重BMI標準体重
川内 優輝3241746421.1 66.6 2.6
入船  敏11351765919.0 68.1 9.1
佐藤 智之40301675118.3 61.4 10.4
前田 和浩6301675620.1 61.4 5.4
今井 正人4271695519.3 62.8 7.8
瀬戸口 賢一郎12301664917.8 60.6 11.6
高田 千春
16301755919.3 67.4 8.4
        
ドミトロ・バラノフスキー7321735819.4 65.8 7.8
ドミトリー・サフロノフ5301907019.4 79.4 9.4
アレクセイ・ソコロフ10321746019.8 66.6 6.6
リドゥアヌ・ハルーフィ9301755417.6 67.4 13.4
フランク・デアルメイダ18281694917.2 62.8 13.8
マーティン・デント8321806921.3 71.3 2.3
アンドルー・レモンチェロ31291886618.7 77.8 11.8
アリステア・クラッグ-311806419.8 71.3 7.3


こうしてみると、日本人のマラソン選手は意外にみな体格が大きくないことに気付く。
優勝した川内選手は、大きい方かもしれない。

BMIは、ほとんどの選手が20を切っている。もちろん標準とされる体重よりも軽く、中には10㎏以上も軽い選手がいる。
その中で川内と、6位の前田、8位に入ったマーティン・デントは少し違う。BMIは20以上であり、川内とデントは標準体重との差も2㎏ちょっとしか違わない。

自分が走るようになって感じることだが、体重が2キロ違うと、走る時の負担がものすごく違う。軽い方が走りやすいのは、ふつうに考えても確かなことだ。

これに従えば、川内は体格に比して、他の選手より重い体重を引っ張って走ったということになる。それでも日本人の中で1位になれた。どうしてか。

筋力が勝っていた。心肺機能が上回っていた。エネルギー消費が効率的でロスが少なかった等々、様々考えられるだろう。

時事通信(yahoo news より引用)


素人考えだが、川内が、筋力その他の条件が同じで、身体を絞り込んで体重を軽くし、他の選手と同じくらいのBMIにすると、もっと記録が伸びるのではないか、と想像する。

他の多くの選手はほとんどマラソンに専念していて、専属のコーチの下、食事、体調管理、トレーニングを科学的行っていることだろう。だからマラソンに適した体を作っている。

しかし川内はすべて自分で単独に行っているらしい。週40時間労働を行いながらのトレーニングは大変だ。彼が専門的なトレーニングを行うことができれば、おそらく記録はもっと伸びる。



もちろんBMIはひとつの指標にすぎず、体脂肪率などは斟酌されないから、これだけで断定はできまい。体脂肪率で見ればすでに川内選手は他の選手並みなのかもしれないし、そうでないかもしれない。それは分からない。

アテネ五輪優勝の野口みずきは体脂肪率4%だと聞いた。これから推察するとマラソン選手は体脂肪率が低い方がよさそうだ。

ちなみにわが肉体は、4位に入った今井選手とほぼ同じ、169㎝、54.5kg、従ってBMIは1.91
で、体脂肪も10%を切るか切らないか位である。
しかし時速10㌔で12,3㎞を走るのがやっと。なぜこれほどまでに違うんだろうか。
当たり前と言えば当たり前だが、もしかすると練習次第では、3時間台で走れるようになるということか?

まあその「希望」だけは捨てずに走りたい。




2011年12月7日水曜日

いま国会で議論すべきことは何なのか

週明け月曜日(12月5日)のNHK国会中継を、仕事をしながら横目で見ていて気分が悪くなった。自民党の稲田朋美氏が延々と山岡大臣の献金疑惑について追及していた。この日の衆院予算委員会は「政治とカネ」の集中審議だったと翌日の新聞で知ったが、こんな時期に丸1日を費やして行うべき「審議」なのだろうか。

 審議内容はおそらく与野党の国会対策委員の話し合いによって決まるのだろう。民主党のイメージダウンにしかい関心がない自民党は「政治とカネ」の審議を要求し、民主党もガス抜きと思って応じたといったところか。

 この問題が大切でないとは言わない。が、予算委員会で“いま”やらなければならない問題なのだろうか。消費税の在り方や方法論など、本来ならば最大限時間を割かなければならない問題はあるはずだ。

 翌日の新聞各紙とNHKを見た。中継は行ったがNHKはニュースでは取り上げていなかった(と思う)。新聞は読売が「国会審議詳報」として全体を1面の3分の2近くを使い紙面にしていた。これは日中の国会中継を見られない層には有用な記事だと思う。朝日、毎日、東京、日経は無視。稲田氏の応援団、サンケイは下の方に500字程度で「追及」を伝えていた。ただし評価はなし。

メディアもわかっている。これから来年度予算審議をしなければならない時期に議論すべきこととは思っていないことを。それでも国会の場は丸1日費やされた。そこには資源としての国会議員や政府の人が使われていることは、忘れがちだ。

 この国会中継を見ていて、ずっと目をつぶって深く考え事をしている民主党の岡田氏の表情が印象的だった。能力的にはこの人が日本のリーダーになるべきだと、私は思っているのだが……。

メディアのインタープリンターとしての役割

すでに、一山超えた感のあるTPP参加是非の論争。これははたして「論争」と言えるものだったのだろうか。12月7日現在、「対立構造」としてのTPPの報道は、皆無と言っていいかもしれない。

 朝日新聞が、細々と朝刊経済面で「おしえて!TPP」の連載で、各論の解説記事を載せているくらいしか目につかない。あの劇場型の二項対立の興奮が去って、ようやくメディアも本来の役割をはたそうとしているかに見える。


日本科学未来館(お台場)
  メディアの本来の役割とは何か。もちろん権力の監視、警鐘といった“お約束”の役割は大切だが、もうひとつの役割は、権威・権力と大衆とのインタープリンター(interpreter)としての役目だろう。

 もともとは、自然と人との仲介、通訳・解説者という意味。転じて難しい科学知識を一般の人に分かりやすく解説するのが「インタープリンター」の役割だ。わたしはこの言葉を、かつて、子どもと訪れた日本科学未来館(東京・お台場) http://www.miraikan.jst.go.jp/
で知った。

  ゲノムやニュート・リノなど、言葉は知っているが説明せよと言われるときちんと言語化できない科学用語はたくさんある。それらを一般のわれわれに分からせてくれるのが役目である。
 私が「ニュートリノ」が「ニュー・トリノ」でなく「ニュート・リノ」であることを学んだのも未来館の展示解説だった。

 そのインタープリンターとしてのメディアの役割が、劣化していると思わずにはいられない。一連の原発報道だけでなく、様々な科学的事象や“事件”について正確で分かりやすい情報は、これだけ複雑化する世の中においては不可欠だ。

 TPPを始め、消費税増税議論、復興予算の使い道など、分かりずらいことを「説明」するのがマスメディアの役割なのではないか。しかしメディアの主張は、政府・権力者に「もっと説明を」と求める
ことの方が目に付く。人は全能ではない。首相や政府の人間でも同様だ。だからこそ集合知を生かした説明をメディアが担う必要がある。新聞社にはそれだけの人材がいるはずだ。
 
 「説明責任」はメディアに方にこそあると、心得るべきではないか。そのために毎月4,000円近くの購読料という情報量を支払っているのだから。なにもテレビ欄を見るためにお金を出しているのではない。

 ※この件に関しては、「もうダマされないための『科学』講義」(光文社新書)の第3章、松永和紀氏の文章に詳しい。また別項で紹介したい。