2013年4月21日日曜日

三浦8段=将棋プロ棋士は、コンピュータに負けたのか? ちがうだろう

21日付新聞は、朝日も読売も毎日も将棋の電王戦=コンピューターとA級棋士(三浦8段)との対決でコンピューターが「勝った」ことを伝えていた。
確かに盤上の闘いだけを見れば、三浦は負けた。しかし見方を変えれば、コンピューターは、記事によると680台ものパソコンをつなぎ合わせて、1秒間に2億7,000万局面を読むシステムを組まなければ勝てないということだ。それほど人間の頭脳はすぐれているといえるのではないか。

これを、単に「トップ棋士も完敗」というのは、うすっぺなら記事にしか見えない。朝日の見出しも「A
級棋士も敗退」となっていた。

コンピューターの専門家、西脇通氏の近著「集合知とは何か」に、まことに的を得た一文が記されていた。
引用する(P98)
『・・・、チェスや将棋とコンピュータとの勝負について、世間のよくある誤解指摘しておこう。チェスの名人がコンピュータに「敗れた」のは10年以上前だったが、先日は、「元将棋名人」(故・米長邦元名人のこと・・・引用者注記)が、やはりコンピュータに「敗れた」そうだ。それでマスコミの一部には、「人間は機械に負けるのか」などとおどろおどろしい見出しをかかげるものもある。
これはまったくの誤りだ。勝ったのはコンピュータではなく、たくみな将棋用ソフトを開発したコンピュータ研究者なのである。(いったい、コンピュータが自分でプログラムを書いたとでも言うのだろか)。つまり、コンピューターという道具を活用すれば、普通の人間でも将棋の天才に勝てる、というのがこの勝負の意味するところなのだ。意地悪くいえば、信じられないほど高速なプロセッサと途方もない大容量のメモリを駆使しないかぎり、明示的な知識の形式的活用によって暗黙知を持つ名人を倒すことはできない、とも解釈できる。コンピュータにたいする幼稚な過信は、そろそろ卒業してほしいものだ』

何も付け加えることはないでしょう。この一文が将棋やチェスの「人間対コンピュータ」の関係
のすべてを言い表してくれている。

4月21日 読売より「引用」

アタマがいい人の著書を読むと、自分も「アタマがちょっとだけよくなった」気になる。まあそれはそれとして、コンピュータと人間の関係を考える上で、非常に需要な指摘をしてくれている。この著書は。

でも第4章の「システム環境ハイブリットSEHSとは」のところは、かなり難しく、よく理解できなかった。(トホホ)

「この章に書かれている要点を500字以内で記せ」などという国語の問題が出たら、おそらく零点だろう。

なんたって何回か読み直しながら読んでもSEHSとはなにかほとんどアタマに入ってこなかったのだから。

最後は話が脱線しました。

2013年4月17日水曜日

実感!SUBARU「アイサイト」の真価はオートクルーズ機能で発揮される

15年ぶりに新車を購入した。SUBARUレガシー・アウトバック。

レガシー・アウトバック(SUBARUのwebより)
15年たつと車もこれほど進化しているのかと思うわずにはいられなかった。これまで乗っていた(今も時々乗っているが)ニッサン・ルネッサが「クルマ」なら、アウトバック2012は「マシン」だ。

走行性能や安全性、使い勝手などは自動車雑誌にわんさか載っていれのでここでは述べないが、スバルの「売り」のアイサイトについてひとこと触れたい。

 テレビCMなどではアイサイトによる衝突防止をうたっている。これはこれで最後の「セフティーシステム」として大事だ。ただ宣伝では、オートクルーズでのアイサイトの機能をあまりうたっていない。しかしここにこそ、アイサイトの一番の能力の真価があった。しかしそれは購入して初めて説明された。そしてしばらくたって高速道路を走って初めて実感した“すごさ”だった。
15年間乗ったNISSANルネッサ
これはこれで、いい車だったけど・・・

オートクルーズをセットすると希望の速さに設定できる。(アウトバックでは最速で114km毎時)。
また同時に車間距離も設定できる。(3段階)
安全をみて一番長い車間距離を設定しておくと(おそらく100mくらいか)、前の車との距離が詰まると自動的にブレーキングされて、一定の距離が保たれて走行してくれる。
前との距離が空けばまた速度を上げる。ブレーキをかければ一時的にオートクルーズは解除されスタンバイ状態になり、スイッチを押せばまたオンになる。

車をよく知っている人にとってはあたりまえかもしれないが、高速道路走行では、これは文書にする以上に安全と快適性をもたらしてくれている。

①アクセルを踏み続けなくていいので、疲れない。
②速度が自動的に調整されるので、無駄なふかしがなく燃費がすこぶるいい。(急加速をしてトルクを感じたい人には物足りないだろうが・・・)
③自動車の量や道路状況によって、オートクルーズのセッティングスイッチでこまめに速度設定を変えると、アクセル調整と同様のことがスムーズで行える。
④前の車との衝突のリスクが格段に減る。(アイサイトは衝突防止装置なので当たり前だけど)

この車に替えて、長距離走行が格段にラクになった。換言すれば、疲れが蓄積しない分、注意力も維持されるということだ。

アイサイトの「眼」(SUBARUのwebより)
もちろん機械は絶対ではない。過信してはかえってリスクが増す。しかしそのことを十分認識して使いこなせば、機械は人間の弱点を補ってくれる助っ人なのだ。

文明に否定的な考えの人は、ヒトは機械を使うことによってラクを覚え、怠惰になり、様々なリスクが増すという人がいる。それは一面の真理かもしれないが、「ある機械」が発明され、それを使える以上、賢く使いこなすことを覚えることの方が大切なのではないか。

機械は、だましだまし使っていくうちに、特性をつかみ、弱点もあることを認識して、自らの能力とどう組み合わせれば、より高度なことを安全に行えるものだと言える。
問題は、どう使いこなすかだ。

交通死亡事故で一番多いのが「追突」だと、何かの記事に出ていた。

高速道路の追突事故で象徴的な事故になったのが、東名で乗用車にトラックが追突して、後部座席にいた3人の子どもが亡くなった事故だった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%90%8D%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%A3%B2%E9%85%92%E9%81%8B%E8%BB%A2%E4%BA%8B%E6%95%85

こうしたいたましい事故は、なんとか減らしたい。そのために「アイサイト」のような装置が、車の「常識」になってほしいと思うし、おそらく10年後にはなるかもしれない。

ちょっと前、いわゆる「ツアーバス」の過酷な乗車勤務(と思われる)による、高速道路事故が問題化した。国は長距離の交代運転手の乗車をより厳しくするなど、対策を行った。
これによって確かに、事故が起きる“確率”はいくぶん減ったかもしれない。だけど、人間が行うことだからゼロではない。またいつか事故は起きるだろう。

まずトラックやバスにこそ「衝突防止装置」が義務付けられることを望みたい。


北陸自動車道のバス事故(web より引用)





2013年4月11日木曜日

「交通事故で死ぬ直前の人の顔をみた」教訓から 

3月29日の関越道下りの事故(TBS webnewsより引用)
3月29日(金)の朝7時台、関越自動車道の下り線の東松山付近を走っていた。
3つあるレーンの真ん中の走行車線を時速100キロ前後だったと思う。

右側のドアミラーの映ったのは、極端に中央分離帯に寄って、少なくとも私のクルマよりスピードを出して走っていた小型乗用車だ。その後ろをピッタリ、大型ワゴン車(たぶんエルグランドだった)が着いていた。よくある、追い越し車線でスピードを出し、前の車をあおって「どけ」と主張するアレである。危ないなと思いつつやり過ごすのを見ていた。

  小型乗用車はいったん左により、エルグランドは猛スピードで走り抜けていった。そして、それを追うように小型乗用車は再び追い越し車線に出ると、スピードを上げて私のクルマの横を走り抜けていく。その際、どんなヤツが運転しているのか、横を向いて顔を見た。口髭を生やした初老の男だった。普通に前を向いていたと思う。

 そのわずか10秒前後あとだと思う。中央分離帯の植木の葉が大量に舞い上がっていた。何が起きたか分からなかったが、走行車線を走る私の前のクルマがハザードランプを点けた。スピードを落として走ると、ほどなく右側に先ほどの小型自動車が「転がって」いた。(記事&写真参照)

この状態の真ん中の走行車線を走りぬけて、衝突は免れたのだった。

 正に転がっていたという表現がぴったりの光景だった。路面にはガラスのような細かい破片が散乱していたので、踏みつけないように前を見て慎重に進む。それでも40~50キロは出ていたと思う。だから転がった車を見る余裕ななかった。同乗していた家族は、車から腕が出ていたのを見た。

 後から分かったのは、事故をおこしたのは、私が横顔を見た、あの小型乗用車だったのだ。そして運転手は死んだ。事故死する直前に、私はその顔を見たのだった。

 記事によると、事故を起こした乗用車は追突したようだ。直前の状況から推察すると、中央分離帯に擦るようにぶつかり、反動で走行車線に飛び出して黒い車に追突したのではないだろうか。乗用車だけが転がったのを見ると急激な進路変更があったことは間違いなかろう。

 当たり前のことだが、車間距離は重要だ。どんな場合でも100mは空けるよう心掛けているが、追い越しの前や混雑している時は必ずしも理想的にはできない。しかし、自分に当初の落ち度がなくても、ひとたび事故に遭遇するとその大切さが分かる。

前の車と詰めて走っていたら、転がった車のために急激にスピードが落ちた車列で追突していたかもしれない。また、もし転がった場所が真ん中の車線だったらぶつかっていたかもしれない。
不運にも事故に巻き込まれた黒い車は、前を走っていて追突されたのだ。これは、いくら前に車間を空けていても避けられない。


 この日はもうひとつ事故(の跡)に遭遇した。あやうく事故に巻き込まれるの回避した後、関越から上信越自動車道に入り、妙義山あたりを走行中、反対車線の橋の上で未明に発生した、ガス欠車で停まっていた乗用車にトラックが追突した事故だ。(記事&写真参照)

この事故のことは朝、出かけるとき関東甲信越のニュースでやっていてので、分かっていた。







 横川SAでひと休みすると、先の遭遇した事故の影響で、関越道は下りが通行止になっていた。当然と言えば当然だが、それによって上信越道も東京からの車が遮断されて、すこぶるすいていた。
ストレスなく走ることができた。

 振り返ってみると、もう少し、おそらくは数十秒、前を走行していたら、あの小型乗用車に追突されて、事故に巻き込まれていたかもしれない。また10分か20分、家を出るのが遅かったら、通行止めになった関越で予定通り行動できなかったかもしれない。(通行止めは結局13時半まで続いたようだ)。偶然が幸いしたと言っていいだろう。それはそれで貴重な経験になった。

いまの車は性能がいい。100キロで走行車線を走っていると、軽自動車でも120~130キロで追い越していく。細くて半径の小さなタイヤでよく怖くないと思う。

人は危険な目に遭ってはじめて、その危険に気づく。いつも事後的に悟るのだ。だから事故は繰り返される。予め事故の危険を「思い知る」ことはできないのだろう。だから「安全教育」が行われたり、さまざな経験から、自覚的に危険を察知する能力を身に付けることが重要になるのだ。
特に自動車は性能があがり、アンチロックブレーキやエアバックなど「安全性の向上」がされているだけに、本質的な危険がかえってみえにくくなってしまっている。それがアブナイのだ。

登山では、いくばくかの経験を積むと、危険なことがある程度分かるようになる。危険なところでは慎重になるクセがつく。ケガしたりアブナイ目に遭うのは、あまり危険とは思えない所だったりするのも、そういうところでは無意識に「安全神話」が頭の中でできあがって油断するからだ。

大丈夫と思う心そのものに危険があることを、改めて「自覚」した出来事だった。








2013年4月8日月曜日

普天間基地問題、名護市長の「県民は怒っている」に違和感

名護市 辺野古の海(by web)

少し前のことになってしまったが、政府は在日米軍の沖縄・普天間基地の代替としている、名護市辺野古の埋め立て申請を沖縄県に行ったニュースが報じられた。

仲井間知事は、「時間がかかりますよ。」「県外に」と主張した。

沖縄の米軍基地問題は難しい。普天間をどうするか、最良の「解」はなかなか出てこない。だから民主党政権も迷走したし、高支持率のアベ政権も慎重にコトを進めているのだろう。
ひと昔前ならば、「米軍基地はいらない」という反米を叫ぶことに一定の支持があり、冷戦終結後はそれで事態が動くこともあったのかもしれない。

しかし今はまったく状況が一変した。多くの人が中国の動きに気をもみ、「やはり一定の抑止力がないと・・・」というのが大方の心情なのではないか。
実際、大手新聞でも「在日米軍不要」という主張をする社はどこもない(と思う)。だからリベラルを標榜する朝日、毎日、東京などはそれぞれトーンに温度差はあれ、「沖縄の負担軽減」の方針の元、(外国も含めた)県外へという主張を繰り返して、“理想論”に終始している。
もちろんだからと言って、「辺野古が一番」などと安易に主張するつもりはない。悩みは深くなるばかりである。


3月24日朝日新聞より引用
そんな中での、「埋め立て申請」で、名護市長の発言が気になった。

「強権的に進められてきたことに、県民は非常に怒っている」(朝日の記事より)

違和感を持ったのは、市長の怒りではない。「県民は・・・」という表現にである。
彼の立場ならば、「私は地元の市長として(反対する立場から)怒っている」とか、「名護市民を代表して、怒っている」というべきだ。
彼は沖縄県の「代表」ではないし、県民全員が怒っている訳ではないだろう。
「県民」という、あいまいな主体を持ち出すことによって、稲嶺市長の発言は、実は非常に軽薄なものになったと思う。


これは、われわれも、若い時ときどき使ってしまった言い回しそのもだ。
自らの主張に「信ぴょう性」と「支持」を得るために、「みんな、言ってるよ」というヤツだ。

この場合のみんなとは誰なのか、どんな主体なのか、そして全員なのか、まったく曖昧なものであるのは言うまでもない。

他の民族がこういう言い回しを好んで使うかどうか知らないが、少なくとも日本人は、わりとよく使う人をみる。

「自分はこう思う」「自分の考えはこうだ」という“主張”をすることが苦手なのか、ボカしたいのか、「みんな」と言うことで、あたかも大勢の「意見」であると主張するのは、かえって信用を失うことを忘れない方がいい。

少なくとも稲嶺市長の発言からは「信念」が伝わってこなかった。ついでに記せば、仲井間知事の「時間がかかりますよ」という言い方にも、“含み”がある。逆手にとれば、時間がかからなければ辺野古でもいいと言っているようにとれる。この知事の真意は、いつも分からない。わざとわからないようにしているのだろうが。

普天間基地(by web)




「桜」一辺倒でいいんでしょうか。日本人の感性の深層

今年の桜は、楽しむ間もなく散ってしまった。時期が早かったため「スキー」に行っていた週末には、自宅近くの桜も、すでに葉桜に変身していた。豪雪と言われた今年の冬は、思いのほか雪解けが早く、季節の「異変」が起こっていると感じざるを得ない。何度も書く。地球温暖化が、何よりも心配だ。
桜の花を見て、何も感じない人は少ないだろう。多くの人が「きれい」だと思い、春の訪れを感じるにちがいない。が、それで本当にいいのか。毎年この季節になると考えてしまう。
「桜」は、この日本に暮らす人々にどんな感性をもたらすか。
①寒い冬に耐えて、訪れる喜び。→耐え忍ぶ心
②期間は短いが、その美しさを存分に発揮。→太く短く生きる美学
③誰もが同じように楽しめる共感。→無意識に求める同質性
こんなところか。

東日本大震災の被災地では、復興を願う証しとして桜を植えるところが多いという(確か、新聞からの不確かな記憶です)

しかしソメイヨシノは接ぎ木でしか育たない。寿命も60~70年だ。世代を超えて受け継ぐ木としてはどうみてもふさわしいとは思えない。それなのに「桜」だ。

このへんに日本人(と言われる)人々の感性の貧困を感じる。もっと多様な選択があってもいいのではないかと。1年にわずか1週間程度の満開の花びらを楽しむために、だれもが桜を選択するというのは、もうやめたほうがいいと思うのだが。