2015年12月30日水曜日

図書館を開放せよ! 年末年始こそ開けるべきだ。武雄市を見倣え

 クリスマスから年末年始にかけては、世間は華やいだ気分になるのは、世界多くの国で同じかもしれない。紛争地域(キリスト教の地域)では「クリスマス休戦」があることもあるし、日本に「年忘れ」という言葉があるよう、まあ悪いことも年があけるのだから忘れて、いわば「前向き」に生きようというメッセージなのだろう。それはそれでよい。
 反対に、ひとりの人、生活が苦しい人にとっては、年末はイヤな時期なのかもしれない。「年越し派遣村」が社会で注目を集めたのは記憶に新しい。

 前置きはそのくらいとして。
年中無休の武雄市の図書館(netより「引用」)
年末年始は誰でも休みたい。客が少なくなるという事情もあるのだろうが、普段は朝7時から空いているカフェも開店が1時間繰り下がったり、閉店が繰り上がったりしている。ビジネス街のカフェは需要がないのか年末年始を閉めるところも珍しくないだろう。またこれも、それはそれでよい。経済は需要と供給の関係で市場原理で動くことを否定はしない。

 しかし公共施設は、少し性質が違う。市場原理ではない「判断」があってしかるべきだ。
ジモト、大田区の図書館は12月29日~1月3日まで全館休館だ。もうひとつ利用する目黒区の図書館に至っては4日(月)まで休み。ネットで調べると世田谷区の図書館も29日から3日まで、一部は4日まで休みだ。これが公共サービスと言えるのだろうか?お役所仕事の極みだ。

 役所の事務が年末年始が休みだから、同様にお休みします。4日は月曜日で通常休館日にしているところがあるから休みます。という通り一辺の「扱い」でしかない。
年末年始こそ、まとめて勉強したい人、本をゆっくり読みたい人、またセンター試験が近い時期でもあり、最後の追い込みで集中して勉強したい人が大勢いる。こういう人々=「学びたい人」たちを支えるのが行政の大事な役割ではないか。誰しも家庭に静かに勉強できる環境がある人ばかりではない。そしたことに思いが巡らないのか、お役所の人々には「そんなのカンケイない」ということなのだろうか。自分たちが年末年始をゆっくり休めることが第一なのだろう。
何も、年末年始も通常通りの貸し出し業務を行えとは言わない。
「通常の貸し出し業務は停止するが雑誌・新聞の管内閲覧と学習室は開放します」というような経営上の“工夫”があってもいい。

 何も図書館で働く指定管理者の業者(最近はほとんどの図書館が「下請け」だ。)は年末年始もなく働けと主張しているのではない。業務を絞り込めば、交代で勤務することも可能だろう。はたからはやる気がないだけにしか見えない。
そもそも役所関係の人間には、土日や年末年始・お盆など多くの人がお休みする時期に働いでいる人が結構いることに対して想像力がない。交通機関やデパート、スーパーなどの店舗で働く人だけではない、介護など福祉の現場でも業務がお休みすることはない。大規模工場など高度成長時代の感覚を引きずっているのか、第3次産業の人口がいちばん多いことにもう少しアタマを働かせてほしい。

ちなみに武雄市(佐賀県)の図書館は365日無休で朝9時~夜9時まで開いている。TSUTAYA図書館には、選書などを巡って批判もあるだろう。しかし少なくとも住民サービスを第一に考えた運営を行っているのは確かだ。
よいところは見習ったらどうか。多くの自治体は。

*図書館サービスはそれなりに進化していて、ネットでの検索、同じ区内であれば取り寄せもすぐ行ってくれる。都内であれば区内にない書籍も時間は多少かかるが普段使用する図書館の窓口で借りられる。それはそれで喜ばしいことだ。だからこその提言である。


2015年12月23日水曜日

出張先の「朝ラン」 名古屋と仙台の巻

出張ランは、あまり大会に参加しない「孤高のランナー」には楽しみのひとつだ。知らない(地理に詳しくない)土地のそれも都心の朝を走るのは、出張中の面倒くさいを乗り越え走ってみる面白みがる。今回は名古屋と仙台。
○名古屋市内ラン(12月2日)
泊まりは名古屋の中心地中区栄のビジネスホテル「R&B栄東」。中区役所のすぐ裏手だ。6時過ぎに準備して出た。名古屋の大通りはなにしろ幅が広い。それだから信号も長い。ひっかかるとずいぶん待たされるのにはちょっと閉口したが、歩道もすごく広いので安全に走りやすい。
区役所の前を通り、久屋大通を北上。この通りは、中央の広い遊歩道(テレビ塔もある)をはさんである非常にデカい通りだ。(東京にはこんな通りはない)。
ホテルにあった簡易な地図を頼りに、大通りの東側の歩道を走ったら、認識と実際に走った道が違っていていつのまにか細い道になった。あとで調べたら愛知県庁の裏側だった。
ともかく、信号「市役所東」で左折して、名古屋城の端っこに出る。そこから左回りに名古屋城を一周した。思ったより短く、大阪城より小さいという印象を受けた。四方を3つ通って、お城の南側に出ると天守閣への入り口があるが、そこは「有料」でもちろん朝はやっていなかった。
(この点、大阪城が天守閣のすぐ真下で大勢がラジオ体操していたのとは対極だ)

お堀は西側と南側に残っていた。ちょっとあっけないお城めぐりだった。距離もそう出ていないので、とりあえず久屋大通りを南下、今度は道の右側、つまり西側を走った。途中から真ん中の遊歩道を走ってみたけど、かえって走りにくかった。途中、アーチ型の歩道橋がかかっているところもあるけど、すべての交差道路にかかっている訳ではなく、連続して走るには不向きだ。
栄をまでだとあまり距離がないので、今ん度は高速道路にぶつかる若宮大通りまで行く。少し周遊しながら、再び道の真ん中の遊歩道を北上して宿に帰った。距離は8.5㎞ほど。正直、少し物足りなかったけど、他に目標物が分からなかったからそこで打ち止め。
宿泊したホテルは安くでよいのだけれど、無料の朝食が少し貧弱。パンとゆで卵とスープとコーヒー、ミルク、ジュースだけだ。朝ランの身にとしてはもう少し食べたかったけど・・・。(笑)

名古屋市はご承知のように碁盤の目のような道だ。もう少し街をしれば、走る場所ももっと開発できるだろう。これからの楽しみだ。


○仙台市ラン(12月14日、15日)
仙台出張は、日曜入りだったので、月、火と2日間のランの機会があった。
泊まりは仙台駅から徒歩15分、県庁手前の「法華クラブ」。愛宕上杉通りと定禅寺通りの交差点の少し南だ。
●1日目
仙台も中心部は比較的碁盤の目になっている。朝5時半に目が覚めたが、真っ暗なのには驚いた。6時近くなってもまだ真っ暗だ。この日の日の出時刻を調べたら、なんと6時45分だった。
東京が6時42分なので3分しか違わないのに、ものすごく暗く感じたのはなぜなんだろうか。
ちなみに福岡が7時14分だった。

ホテル法華クラブを出て、愛宕上杉通りを北上。片側2車線だけど路側帯が広く歩道も広い道で、走るのには快適だ。右側にNHK仙台放送局を見て、左側に真新しいNTTドコモの高いビルを見て走る。しかし道は、左手に東北大学の農学部あたり、2㎞もいかないうちに細くなった。仙台市の中心街は意外と小さいと感じた。しばらく行くと、北仙台駅付近。山形と仙台を結ぶ仙山線の高架を見ながら、西に折れて進む。突き当りを更左に折れて南下。右側の東北大学病院沿いに右(西)に折れて進む。
この辺で引き返そうかと思って周囲を見上げたら、タワーマンションが見えた。ライオンズマンション青葉広瀬だった。(後で調べたら)。とにかくその「麓」まで行って、少し戻るように、回り道をして広瀬川に出る。
広瀬川は河岸段丘になっている所も多く、河川敷を走るという状態ではない。(もっと下流にいくと河川敷に出られると、あとから聞いた)。大きくくねった広瀬川の橋を渡ると左手は仙台第二高校だ。左前に東北大学のキャンパスを見ながら、左に折れて、再び橋を渡る。いわゆる仙台西道路だ。昔、山形から仙台に出る時には必ず通った道の「上」を走っている感じ。仙台市の中心街に戻り、一番町のアーケードの中を北上して、イルミネーションで有名な定禅寺通り右折して宿に戻る。だいたい9㎞ちょっとの道のりだった。



●2日目
青葉城を目指す。宿から南下して、青葉通りを西へ、広瀬川を渡り、仙台国際センターの前を左に折れて裏から青葉城へ。ここから結構な登りだ。(部分的にはほとんど登山)。
青葉城の城壁は美しい
走ることが無駄なような急坂だが、「走った」。思いだしたのは村上春樹の「走ることについて語るとき、ぼくの語ること」だ。この中で、村上さんはサロマ湖100㎞マラソンに出た時のことを書いている。くたびれてきても「決して歩かなかった」歩くようなスピードになってても「走る」ことにこだわったことが記されていた。それに倣い、急坂をほとんど足が靴のサイズの30㎝弱しか前に出ないけれど、走った。そして道路と合流し、その脇に遊歩道(時々階段になっていた)を「走って」青葉城に着く。距離にしたらたいしたことはないが、急坂を走るという経験がないだけに、きつかった。
翌日、すねの前の筋肉が痛かったので、登り坂で使う筋肉は違うということに気付かされた。
身体が冷えるので写真をとって早々に青葉城を後にする。
青葉城はなんと「護国神社」になっていることを知った。お城の中に「護国神社」というのは初めて知った。もちろん神社境内には入らなかったけどね。

仙台市の紹介では(定番」の伊達正宗像


















2015年12月19日土曜日

「生きて帰ってきた男」から『希望』について考える。

小熊英二さんの『生きて帰ってきた男-ある日本兵の戦争と戦後』は、読み応えのある本だった。これが岩波新書で940円というのは安い、お買い得。
「小林秀雄賞」がどんな賞で、この本にふさわしい章かどうかもわからないが、ともかく“賞”を獲得するにふさわしい内容だ。

生きるのに精一杯だった、農村出身のひとりの男の一生。
「平均的日本人」などというものは存在しないだろうが、ともかく近代において多くの日本人がそうだったような生い立ちと、徴兵、そしてシベリア抑留、戦後の混乱期を生き抜いてきた人間像を、その背景をデータや他研究から綿密に背景として描いた手法は、読み手に説得力を与える。

シベリヤ抑留について、これまで興味はなくその関係の本をまったく読んだことがなかったが、こういう描き方だと、読める。また戦前、戦中、戦後の社会の様子も非常に興味深く読むことができた。
本編の最後は、以下のように結ばれている。

「さまざまな質問の最後に、人生の苦しい局面で、もっとも大事なことは何だったかを聞いた。シベリヤ抑留や結核療養所などで、未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切だと思ったか、という問いである。『希望だ。それがあれば、人間は生きていける』そう謙二は答えた。」

おそらく謙二は、精神的には強い人間だったのだと思う。自暴自棄になることもなく、苦しい時にひたすら耐えることができる、苦しい中にも生きる望みを見出そうとする精神の持ち主だ。そして、限られた“資源”からも創意工夫で、生きるためさまざまなツールを生み出す才覚も実はあったのだろう。そういう面はあるにせよ、だからこそ「希望」を失うこともなく生きてきた。

『希望だ。それがあれば、人間は生きていける』。

これで思い出したのは、村上龍がどこかで書いていたことだ。
「日本には何でもある、しかし『希望』だけがない」(不正確だけどこういう趣旨だった。『135歳のハローワーク』だったかもしれない)

モノやサービスがあふれ、そういう面ではお金さえあれば何でも手に入るほど、表面上は豊かになった日本には、『希望』がないことを、短いことばで的確にとらえた一文だ。

玄田有史さんの『希望学』もある。最近の(2か月くらい前)の日経新聞で、若者が会社を辞める時はどういう時がという研究の話が載っていた。それは「先が見えてしまった時と、まったく先が見えない時」ということだった。つまり、どちらも「希望」が見いだせない時だろう。

小さなカイシャのソームをやっていると、いかに若い人に「希望」を提供できるかが重要なことが分かる。


「希望」を持つ。このシンプルで一見陳腐な言葉は、実は奥が深く、重い言葉なのだろう。

※その後、ネットで調べたら、村上龍の「この国には・・・」は、小説「希望の国のエクソダス」の中の言葉でした。
13歳のハローワークは、その後、「新・13歳の・・・」も出版されている。
職業は生きる手段ではなく、生きることそのものだということを、説いている。





2015年12月5日土曜日

ラグビー日本代表「歴史的勝利」とは何か?。

 五郎丸選手は、物腰が穏やかで、紳士然としているところもあり、国民的な“人気者”になってもおかしくない。好感の持てる人物だ。その意味ではにわかラグビーファンが増えてもおかしくない。別のそのことに異議を唱えるものでもない。

 が、先のワールドカップで南アフリカに勝利したことを「歴史的勝利」と言うことには、違和感を感じる。先日の今年の流行語大賞で、再びこのフレーズを耳にして、抵抗感を覚えた。
 長くラグビーに関わってきて、諸外国の中で辛酸をなめてきた選手や関係者が、「歴史的勝利だ」というのは、理解できる。当事者にとって一大事だということが伝わる。そういうことは個人史でもあるだろう。
 しかし、テレビジョンのアナウンサーが「国民誰もが感動した・・・・」(朝のニュースで確かにこう言っていた)とか、「歴史的勝利」などと言うことに、どれほど裏付けがあるのだろうか。こういうのを言葉が滑っていると言うのではないかね。
そもそも「歴史的」とはどういうことを指すのか。歴史上の意外性ということなのか。それは何の、どういう立場から見た「歴史」なのか、言葉の定義をはっきりさせないで言っても意味が伝わらない。

 一連の「歴史的・・・:はスポーツについてのことだからまあどうでもいいけど、メディアがこういう言葉を何の疑問も持たず使っているとしたら、それは少々問題なのではないか。

ISという集団が国の中に新たに国として「宣言」することの方が、よっぽど「歴史的」な出来事だろう。でもニュースを見ていて、新聞も含めて、ISの独立宣言を「歴史的」と言っているのを見たことがない。どうも「歴史的」とはモノゴトを肯定的にとらえる時しか使わないらしい。メディアは。

こういう些細なことが、次第にメディアへの不信感につながっていくような気がする。

2015年11月24日火曜日

イスラム文化を風刺と称して侮蔑してきた仏社会の背景にも目を向けるべきだ。テロについて。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロも、今回のパリで起きた130余りが亡くなったテロも、大きな出来事であること異論はいなし、それを容認するものでもない。
しかし。しかしである。報道のあり方も含めて、各国(特に西ヨーロッパ)の態度には少し違和感を覚える。
テロは背景は何か。
フランス人(と、十把一絡げに扱うのはナンセンスなことは重々承知しながら)が、風刺と称して、イスラム文化を侮蔑するような漫画を掲載して騒動を起こしたのは記憶に新しい。またそういうメディアを容認する「純粋フランス人」社会の世間があるからこそのメディアの振る舞いなのだろう。
そうしたことを考えると、イスラム文化圏の人々の中には、過激な行動をとる者が出てくる可能性を大きくしていると言えまいか。
「自由という価値観を共有する」とはいうフレーズには注意が必要である。自由は、ステータスの高い、文化資本も備えた階層の人々が持っているいるもで、西欧の繁栄を底辺で支えてきた移民には通じない言葉ではないか。
詳しく調べた訳ではないので的外れかもしれないが、フランスに多くいるアフリカ系の人々が仏社会でスポーツや芸能以外でエラくなったというのを見たことがない。それほど階級社会が固定されていると見ることは間違っているだろうか。それはイギリスでも同様だろう。その意味ではアメリカの方がまだしも多様性があり、そしてアフリカ系、アジア系、ヒスパニックもステータスを上げることができる可能性があるように見える。

かつて西ヨーロッパでは、庶民階級に教育を施すのを上流階級の人々は反対した。「既得権」が既得権でなくなること恐れたのだ。(と、世界史の教科書に書いてあったように記憶する)

フランスの掲げる「自由」はご都合主義にも見える。
今回のテロを「手放し」で批判する気にはなれない。もっと深く考えることが必要だ。しかしメディアの多くはその材料すら提供しようとしていない、ように思える。

追記:
このつたない論考を書いていたら、AERAで内田樹さんが、同様のことをもっと深く指摘していらっしゃったのを「ちょっと見」で見つけた。そちらの方が参考になる。当然だけど。

2015年11月20日金曜日

「一億総活躍社会」をどう“見るか”

朝日新聞より「引用」
安倍首相の好き嫌いは別問題として、政策は正当に評価することが「大人の見識」だろう。
 しかし朝日新聞や、一部のセンセーショナルに扱うことでしか自らのレーゾンデートルを示せない雑誌は、「一億総活躍社会」をハナから見下している。
 そんな中で、冷静な筆致でこの「問題」をとらえたのが湯浅誠さんだ。中味をきちんと検討した上で、その政策が真に効果的なものになるかどうか見極めるのがメディアの役割だと、朝日新聞を「叱って」いる。
 こういういわば当たり前の視点は、なぜか昨今のメディア環境では珍しいものになってしまった。湯浅さんの言説は説得力がある。
 これに比べれば本当に多くのメディアの「底の浅さ」は辟易する。

2015年11月10日火曜日

ノーベル物理学賞で、湯川秀樹「旅人」を思い出した。

「ニュートリノに質量」で、日本人がノーベル賞を受賞することになって、にわかに(再びというか)、物理学が一般の人の注目を集めた。11月8日(日)のアサヒの書評欄「ニュースの本棚」は『ノーベル賞と素粒子』を扱っていた。
その中に湯川秀樹の「旅人」が紹介されていた。
湯川秀樹と言っても、18歳の愚息は「それ誰だっけ?」レベルだけど、年配者なら日本人として初めてノーベル賞を受賞した物理学者ということは知っているだろう。

「旅人」を読んだのはもう30年以上も前の大学3年のころだった。いまでもよく覚えている。社会学のゼミの先生と飲んでいる時に、なぜか湯川秀樹の話になって、「旅人」を進められた。
「文庫の薄い本だkらすぐ読めるよ」という言葉に導かれ、数日中には購入して読んだ。
多くの中味は忘れてしまったが、確か湯川博士が確か5,6歳で論語を祖父から教えられてそらんじていたような記述があったように思う。
やはり、湯川博士は幼少のころから、並みの人間とは違うんだと思ったことと、同時に、理科系に進む人でも、幼いころの論語のような素養を大事にしていることに、かすかな驚きを持った。
すでに文化系に進んでいた自分も、反対に理科系の素養をまったく捨てるのはもったいないと、どこか心の隅で持っていた。
その後就職して家庭を築きと、人並みの生活に追われる中でも、おそらくこの思いはどこかで残っていたのだろう。かなり経ってから、畑村さんの「数学シリーズ」を読んだり、「もう一度高校数学」なども購入してそれなりに“読んだ”りした。(勉強しなおしたという程ではなかったけど。)
また、恥ずかしながら、子どもの中学受験では、ほとんど真剣に算数と取り組み、どうすれば一番子供に教えることが伝わるか熱中した。週に2日か3日。子どもの塾が終わるのに合わせて帰るのを待つ間、ターミナル駅のスタバで1問づつ問題を解いた。

 話が逸れたが、「旅人」はおススメの書籍だ。30年前に読んでも、時代背景が少し古臭いと思ったので、今の人々が読んだら、ほとんど「古典」かもしれない。それでもおすすめだ。愚息にも薦めてみようと思う。

で、全然関係ないことだけど、梶田隆章さんがノーベル賞の受賞が決まった時、会見で前の受賞者・小柴さんのことを盛んに聞かれていた。メディアは「カミオカンデの師弟関係」という分かりやすいストーリーを作りたかったのだろう。梶田さんは(もちろん)大人だから、それなりに受け答えをしていたが、どこか小柴さんに対してよそよそしい感じを受けた。
 ここからは単なる想像だから失礼になるかもしれないが、梶田さんは小柴さんに「冷遇」されていたのではないか。なぜか、小柴さんは東大卒だが、梶田さんは違う。当時の状況から言うと、東大閥の中で、梶田さんは様々なカベに苦労したと思う。きっとそういう壁を研究で打ち破ってきた努力の人なのではないか。あの穏やかな表情の中で、そんな「闘志」を感じ、梶田さんに好感を持った。
以上。


2015年11月3日火曜日

答えが簡単に出ない問題をどう考えるか。辺野古と普天間、労働者派遣法・・・etc.

 韓国の主張する「慰安婦問題の解決」や、新安保法案がいいのか悪いのか。また、改正労働者派遣法は、政府の言うように労働環境がいい方向に行くのか、それとも改悪なのか。沖縄普天間基地の移設問題。18歳選挙権になった場合の高校生の政治活動問題、等々。

辺野古(netより「引用」)
どれも簡単には「正解」が出せない問題ばかりだ。全体を俯瞰し、よく考えれば考えるほど、問題の本質の奥深さ(根深さ)が見え考えことに「迷い」が出てくる。

 確か古市憲寿さんがどこかで書いていた。沖縄基地問題に関して、メディアの世論調査が「白黒」を設問・回答を要求してくるが、考えれば考えるほど「分からない」という答えがまっとうなのではないか。と。(表現はこんなにストレートではなかったけど、要するにそういう趣旨で言っていた)。

 高校生の愚息が新聞を読んで、こちらに「答え」を求めてくるが、いずれも「う~ん。難しい問題だ」としか答えられない。すると「オマエは逃げている」と不満を言われるけど、しかたない。

○韓国の“従軍”慰安婦問題。
安倍首相の「本音」や「思想」はともかくとして、これまで政府も出資した償い金や村山首相の「談話」など日本としては決着を図ってきたのは事実だ。いまさら韓国で騒ぐことには、リベラルな文化人も「困惑」している。だから今回の日韓会談際して沈黙しているし、実際「何も言えね~」状態だ。

○改正労働者派遣法
いわゆる26業務がなくなり、すべての業務が3年の「期限」になった。ただし3年は人のことで、事実上、「仕事」についてはずっと派遣労働を導入していける。これは、突き詰めると「人」重視なのか「仕事」重視なのかという問題になる。そして派遣法そのものが製造業などの、言ってみればあまりスキルや人の継続性を重視しない仕事のためのものになりつつある。
実際、事務などは有期の直接雇用が増えている。有期が5年という「目途」が示されているためだ。
コスト的には派遣会社に支払うより社会保険を負担しても「安い」という目算なのだろう。
生産量に応じてすぐ人を切りたい製造業の「単純作業」では、派遣は都合のよい労働力の導入だ。そのための改正だったと見ることもできる。
 では、これまでの派遣法でよかったのかというと、そうとも言えない。

○普天間基地の辺野古への移転問題
 「在日米軍はまったくいらない。だから基地は廃止すべきだ」という主張ならば、それはそれでスジは通っているから、論争のしようもあろう。しかし南沙諸島や尖閣など、結構きな臭いことが日本の周辺で起きている現状では、そういう『主張』はごく少数だ。それは世論調査からも伺える。
 だから社民党などは「国外へ」とか、おバカ首相だった鳩山の「最低でも県外」などという中途半端な発言が出るのだ。基地が迷惑施設であることには変わりない。国外、県外でもどこかで誰かが迷惑を被るのだ。ではどうするのか。答えが出ない問題の最たるものだ。

福島第2原子力発電所
(netより「引用」)


(続きを書くのが億劫な話しだ。嗚呼)


 

2015年10月25日日曜日

コンプライアンスって何? 郷原信郎さんの著書から「法令遵守」を考える


郷原さんの書著は、いつも的を得ている。いろいろ勉強になる。
「法令遵守が社会をつぶす」を読んだのは、随分前だったけど、日頃から何となく思っていたことを見事に「明文化」して、はっきり、しかも論理的に解き明かしてくれた。

もう具体的内容は忘れてしまったけど、これこそ「溜飲を下げる」と言うのだろうか。
もちろん、郷原さんは法令を守らなくてよいと言っているのではない。単純な「規則さえ守ればよい」という考え方ではダメだと言っているのだ。と思う。

 中小企業に勤めて、危機管理について、改めて考えなければならなくなった。で、コーポ―レートガバナンスの本も役にたつが、それだけではなく、再び郷原さんの図書館で借りてみた。

「組織の思考が止まるとき」は、発行年月日を見ると、2011年2月となっている。東日本大震災が起こる少し前だ。
内容は法律の古典「日本人の『法意識』」にも通じるところがある。

以下、(印象に残った)内容を簡単に記す。

○多民族国家アメリカでは人種、文化、慣習が異なる多くの民族が一つの社会を形成し、社会としてのまとまりを維持するために「法令と契約による拘束」を中心にすることが不可欠だった。社会の中心に司法制度が位置づけられた。

○日本社会でも「法令遵守」という言葉は古くから社会内で定着してきた言葉だったが、それはアメリカ社会におけるComplianceという言葉とはかなり異なる意味を持っていた。

○民族の多様性がない日本では同質性から社会内における協調関係が維持され、暗黙の了解、合意が重要な機能を果たす社会。法令や契約に基づいて司法手段によって問題を解決するのは社会的逸脱者が犯罪を行った場合や感情的対立など特異な事象が発生した場合の最終的な手段であった。

市民生活や経済活動は、社会内の不文律としての「掟」や失墜、「村八分」など社会内における制裁手段が用意されていた。

○ところが2000年以降、グローバリズムの名の下、日本社会のアメリカ化が進み、法令や契約を社会内の解決手段として最大限に使いこなすアメリカで「法を守ること」という意味で使われるComplianceが、「法令遵守」という訳語と結びつけて使われるようになった。

○日本社会における法令や司法の位置づけのアメリカとの違いが考慮されることなく、企業などの組織の取り組みとして重視されるようになり、「法令遵守」という意味のコンプライアンスが社会全体を覆い尽くしていくことになる。

コンプライアンスの本来の意味は「他からの求めに応ずること、従うこと」である。これを組織と社会の関係に置き換えれば、コンプライアンスとは「社会の要請に応えること」


「法令遵守」という言葉、法令を守ることの自己目的化が、様々な弊害をもたらしている。

○「法令遵守」という意味のコンプライアンスが社会全体を覆い尽くしている今の世の中では、どうしても(組織のピラミッドの)下の方に注意が向いてしまう。

○何々規則、何々基準、マニュアルを守ったか守らなかったをチェックされるから、それを守ろう、守ろうという方向に注意が注がれる。その結果、一番肝心な(ピラミッド)の頂点から注意が離れる。

社会の要請にバランスよく答えていくには、組織の中で共通認識を持つことが必要。それによって組織のコラボレーションが可能になり、社会の要請に応えるパワーを生み出す。
そのプロセスこそ組織にとってのコンプライアンスに他ならない。


○フルセットコンプライアンスのすすめ
1:組織としてどういう社会の要請にバランス良く応えていくか方針を明確にする。
2:そういう方針が実現できるような組織体制を作る
3:作った組織が実際に機能し、実際に社会の要請に対して反応して動いていかなければならない。
▷トップとボトムのセンシティビリティー。自ら敏感に反応すること。縦のコラボレーション
▷横のコラボ
4:治療的コンプライアンス 不祥事対応
5:環境整備コンプライアンス

戦後は長らく、日本の経済省庁は法令に基づかない行政指導によって経済活動、企業活動をコントロール。ほとんどが官僚の裁量で行われてきた。その時々の国家や社会の状況に応じて社会の要請に応えるための活動として行われてきた。
○それは単に法令にそのまま従っていればよいというものではなく、むしろ法令上明確に規定されているのではなく、行政上の裁量に委ねられている事項についてどのように対応するかが官公庁の判断として重要だった。
○ところが「法令遵守」の波が押し寄せ、官公庁組織も「頬憂い遵守」さえしておけばよいという考え方が幅を利かせている。しかしそのような「法令遵守」に凝り固まったコンプライアンスを行うことによって官公庁が本当の意味で社会の要請に応えていくことができないのは明らか。


不祥事事例の“研究”
○社保庁の不祥事
「年金改ざん」問題。
「標準報酬遡及訂正事案」
標準報酬月額を遡って引き下げる手続きへの批判。

 これは、それによって支払うべき保険料が遡って安くなるので保険料の滞納が帳消しになる一方、将来受け取る年金額も減少する。事業主自身の申告に基づいて行われた。
給与から天引きされる従業員の報酬月額が本人の知らないうちに事業主によって勝手に引き下げられたとしたら、それは事業主による保険料の着服・横領だが、事業主自身のものは実質的に被害はない。
 すべての法人事業者と従業員5人以上を常時雇用する個人事業主は厚生年金への加入が義務付けられている。この制度は経営基盤が安定していて大企業向けの制度。
中小零細企業は法人であっても実態は個人事業に近いものがある。事業主と家族が取締役という例も多い。支払困難になった事案について「遡及是正」を行うことは加入者間の負担の公平を確保しながら年金財政を維持していくにはやむを得ない措置。
 なぜなら事業者が倒産して多額の滞納が確定すると、保険料を支払わなかった事業主にも将来多額の年金が支給されることになるから。その資金は他の保険加入者が負担するという不合理が生じる。
これが「法令遵守」で考えると全く違う。
これが「年金改ざん」などと社会問題化した背景は、度重なる不祥事に対して厚労省や社保庁が「法令遵守」的対応ばかりを繰り返し、問題の本質を明らかにして国民の理解を求める努力をしてこなかったから。


○事故米問題の本質
残留農薬に汚染されたいわゆる「事故米」が工業用ののりなどの非食用として政府から売り渡されたあと、不正に食用として転売された事件。
問題の本質は2つ。
①健康被害  ②転売による利益を得る悪質は経済犯罪
①は結果的に人体への影響が懸念されるようなものではなかた。農水省の対応のまずさが批判を大きくした。


▷法令に納得していなければ「遵守」できない。

○「法令遵守」をはき違える放送事業者
放送法第4条の遵守だけでは問題は解決しない。
・放送によって権利侵害を受けた人が3か月以内に請求があった時は遅滞なく真実かどうか調査。判明した日から2人いないに訂正、取り消しを行う。
これは放送事業者が自浄能力を備えているという前提があって初めて機能する。
ところが、単に「法令遵守」といい観点からこの条文に違反しなければいいという考えをとると、放送法の趣旨とは全く相反す事態になる。まず調査を行うことが大事。

○「あるある大辞典」の納豆ダイエット
週刊朝日が海外専門家のコメントに疑問をもってインターネット・電子メールで確かめたら、その専門家のコメントはまったくねつ造だった。

○TBS「朝ズバ!」の不二家関連報道
元従業員の証言。顔なし証言で不二家バッシング。信頼回復対策会議という第三者機関の関連資料からねつ造が発覚。

○日テレ「バンキシャ」の岐阜県裏金問題
偽証証言の報道は、たまたま証言者が逮捕され取り調べで偽証証言を供述したから偶発的に発覚。放送事業者の自主的調査だけでは「報道の自由」「取材源の秘匿」に守られ事実は明らかにならなかった。

「あるある・・」の関西テレビが民放連を除名処分に、番組打ち切り
日本テレビは報道局次長が岐阜県庁を訪問・謝罪。社長が引責辞任。
TBSは最後まで誠実な対応をせず、無理な弁解を押し通す。
BPOも言い分をほぼ丸のみ。

社会的影響から言ったら、あるあるは小さい。
バンキシャも岐阜県庁が直ちに調査を行ったことから比較的影響は小さい。
朝ズバは、不二家に与えた影響は多大。不二家は山崎製パンの子会社になる。フランチャイズの2割が廃業。

コンプライアンスのあり方を考えるには
「法令遵守」から「社会的要請への適応」

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この書著で言及されていた放送事業者の問題は、「メディアの劣化」などと、紋切型の言説で切って捨てるには、あまりにも根深い問題だ。

「法令遵守」の背景に、日本社会の“大衆性”の台頭があるのは、間違いないだろう。この問題でも日本は「反知性主義」的社会になりつつあるのだろう。残念だけど。

2015年10月24日土曜日

消えた「竜王戦」。<多様性>か<選択と集中>か、NHKの番組編成から考える。

  NHKのBS放送から囲碁名人戦の中継が消えたことを、先日書いた。10月から始まった恒例の将棋「竜王戦」の中継もなくなった。
1日24時間×7日フルに放送している中で、囲碁名人戦(や本因坊戦)、将棋(名人戦・竜王戦)の中継放送など2日合わせてもわずか3時間~4時間程度だ。
いろいろ事情はあるのかもしれない。ニコ動で中継しているとか、主催する新聞社との関係とか。しかし、どちらもクリアできない問題でもないように思われる。

 内実は分かりようがないが、主因はなんといってもNHKのBS放送の編成方針にほかならないだろう。同じような旅番組、同じようなスポーツ中継、同じような歌番組、同じような映画ばかり並ぶ番組編成・・・・と言ってしまったら、どれも「違う」「それぞれに個性や特徴があるものばかりだ」という反論が聞こえてきそうだけど、興味のない者にとっては、そう見えてしまうプログラムだ。まあ、反対に将棋や碁に興味のない人にとっては、竜王戦や名人戦で誰がどう対局しようと、同じように見えてしまうのだろうけど。

とにかく、NHKの衛星放送は「多様性」より「選択と集中」を選んだということだ。
集中の中味は、BSプレミアムの場合、ほとんど①紀行(旅・食・サブカルチャー)、②娯楽(映画・ドラマ・演劇・歌・お笑い)に集約されると言っていいかもしれない。「多様性」は、この範疇の中だけで行われている。

 公共放送の首脳陣もバカではない。おそらく確かな統計的根拠に基づいて、これが一番、衛星放送の契約件数を伸ばすのに一番効率がいいからそうしているのだろう。

 経済活動の原則(要するに一番もうかるようにするにはどうしたらいいか)から考えれば、一番売れるものを多く作ることだ。あまり売れないものを少数作り続けることは効率がわるく、もうからない。これ当たり前のこと。放送番組の制作が大量生産と同等かどうかは分からない。ニッチな生産が支持を得ることもあるけど、大衆というマスを相手にするには、「大量生産」が効率がいいのは確かだ。

 NHKという組織は「国民の皆様から預かった受信料を無駄にすることなく一番効率的と思われる方法で使わさせて頂いています」ということなのだろう。
世の中で、将棋や碁をたしなむ人など、効率性からいったら「無視できる数」ということなのだろう。
おりしも、「週刊将棋」という週刊新聞が休刊するというニュースが出ていた。ベタ記事でほとんど問題にされないレベルだったけど。こういう
NHK衛星放送の囲碁・将棋関連の放送の減少、将棋新聞の休刊、こうした、それぞれでは小さな出来事が積み重なっていくうちに、文化(囲碁や将棋をそう呼ぶとして)が消えていってしまうのだろう。NHKはそうれに加担しているという自覚もなく。

囲碁も将棋も、凡人には想像もできない非常に高度な思考が見えないところで繰り広げられている。ビッグタイトルの中継は、その解説を通じて「見える化」し、知的刺激を与えてくれるシンプルだが非常にいい放送番組だった。
そんなものは「皆様のNHK」の運営には何のカンケイもない話なんだろう。
残念でならないけど、これが大衆社会の公共放送というこだ。



2015年10月15日木曜日

フルマラソンへの道② 道具が結構重要なんだよな



こぞって着用していた高速水着(ネットより「引用」)
北京五輪の時だったか、SPEED社の高速水着が「速い」という評判をとり(事実、この水着を着た選手が次々記録を塗り替えていたと記憶している)、ミズノやアリーナと契約していた日本人選手も、この高速水着を着てレースに臨んだことがあった。
 このとき北島は五輪の場で「I'm a swimmer」と書かれたTシャツを着ていて、ちょっとした話題になった。アイ・アム・ア・スイマー、すなわち「泳ぐのはオレだ。(水着じゃない)」と主張していた。このことを雑誌か新聞で知り、今でもかなり印象深く覚えている。
北島の主張は、かっこよかった。道具に翻弄されるのは、競技者として本来の姿ではないことを、静かに訴えていたのだ。まあ彼もSPEEDを着てレースに出たけど、ちゃんと勝った。今ではこの水着は公式試合では使えないらしいけど。すごい水着だった。

 スポーツを行う時に道具に踊らされるのは、いささか躊躇する。情けない。「弘法筆を選ばず」なんて古いことわざを持ち出すのもなんだけど、自分も「アイ・アム・ア・ランナー」=「走るのは自分だ」と、かっこよく言ってみたい。

 でも、やはり道具が結構重要なこともまた事実だ。
スキーをしていると、これはもう道具(板や靴)を何にするかで、滑りが違う。。

 という訳で、30㎞走は新しいランニングシューズで臨んだ。 NEW BALANCEの新シリーズ「VAZEE PACE」。
メーカーのうたい文句は、長距離を目指すための、弾力性と反発性、そして240gという軽量性だ。

ディゼロ・ジャパン・ブースト2
アディダスのブーストシリーズ(具体的にはアディゼロ・ジャパン・ブースト)とどちらがいいか迷った。ブーストの弾力性も手で触ると非常に魅力的に見えた。実際履いてみるとカカトの具合もいいのだが、残念かな、シューズの形状がイマイチ自分の足に合っていなかった。足型が合う人にはお勧めかもしれない。

結局2週間ほど考えて、つま先の形状がより自分の足に近いこと、また前が上に反っているので、足抜けがよさそうなことから、NBのものにした。。結果はオーライ。

RC1100 185gと超軽量
これまでは、自分の実力に対して、少し高めシューズを履いていた。軽さが魅力なのと、少しでもベアフットランができるように、店のススメもあり、自分なりに考えてあえて選んだ。ニューバランスの「RC110」。
写真は最新モデルだけと、自分のは旧型で、色は違うし、仕様ももしかしたら少し違うかもしれない。でもなかなかいいシューズだ。

雑誌に載っている記事で、少し上のシューズを選ぶのが良いという記事を後から見つけて、選択は間違ってはいなかったと妙に納得したりもした。



で、新しいシューズで30㎞走ってみてどうだったか。これまで長時間になると足がむくんだりりして異常に長い薬指があたって爪を痛めていたが、このシューズではそれがなかった。また足抜けもよく、疲れが出たあとに真価を発揮した。
20㎞くらいまでなら、ベアフットランニングをなんとか続けられるので、ヒールの底が浅いシューズでも、なんとか走れたし、苦にもならなかったが、苦しくなってくるとさすがにお尻が落ちて走ることになる。自分でも落ちているのが分かるけど、なかなか修正できずに走る。そういう状態で、このバジー・ペースは真価を発揮した。(続く)

2015年10月14日水曜日

フルマラソンへの道①30㎞走を初体験。

 フルマラソンを目指す者にとって、30㎞走はひとつの関門だろう。(ランニング雑誌によく書いてある)。初めて30㎞を走った。なんとか。

 なぜ走るのか。 村上春樹さんの最新刊エッセイ「職業としての小説家」にかなりの分量を割いて、身体を鍛えることが記されている。頭を使うこと(創作活動)と身体を鍛えること(ランニング)は一体のものであることが、経験則からも生理学的にも必要なことだと。
 まったく同感というほかない。それは50を超えてから本格的走り始めた者にとって、体験的に実感できるものだ。
 30㎞走は、自分にとってフルを目指す一里塚というよりも、心を鍛えるひとつの「手段」だという意識があった。ともかく走ってみようと。

 これまでハーフマラソンのレースには4回ほど出場したが、フルは未経験だ。適当な機会(大会)がなかったことと、普段のランニングは、特にフルを「目標」にしてトレーニングを積んでいる訳ではなかった。でもアタマの片隅のどこかに、一度は出てみようという気持ちがあるのだろう。そして出るからには、制限時間ギリギリでボロボロになってゴールするなんているみっともないことは、主義としてしたくない。それなりの記録でゴールしたい。という気持ちが、これもまた心のどこかにあるのだ。具体的にはサブ4だ。60前の初老が、初マラソンでサブ4なんて無謀な目標かもしれないが。

  いつもひとりで走っている。だれのアドバイスも受けず、励まし合う相手もいない。いつも同じところばかり走る。だからランニングを楽しむ要素は極めて少ない。自分でもよく続くと思う。
でもともかく続けていられるのは、走ることで他の生活の要素のパフォーマンスも上がるという“感覚”を何となく、理屈ではなく、身体として感じているからに他ならない。だから村上春樹さんの言いう「身体と頭脳の一蓮托生論」(と勝手に命名)には、ものすごく共感した。
 (「走ることについて語る時、ぼくの語ること」は、ほとんど私の“バイブル”だ)

 今年の夏も暑かった。8月はなるべく朝早くに走った。それでもものすごく汗をかくので15㎞が限界だった。それでもコンスタントに毎週走り、月間ペースとしてはなんとか120㎞をキープした。120㎞という距離は、(当たり前だけど)、フルマラソンに日常的に参加しているような方々から見れば、フンと鼻で笑う距離でしかないだろう。雑誌を見ていると月間300㎞、500㎞なんてザラにいるようだから。反対に走らない人から見ると、120㎞と聞いただけで驚かれる。まあそれはともかく、120㎞~150㎞が自分のこれまでの月間ペースだ。

 夏の終わりに多摩川を20㌔走り、9月に入ってからは日曜ごとに(1回休み)22㎞~26㎞を走った。そして10月12日体育の日、初めての「30K」だった。
タイムはEPSONのリスタブルウォッチで平均速度5分55秒/㎞。なんとかキロ6分を切った。しかしキツかった。「孤独との戦い」などという紋切型の言葉で表せない。音楽も聞かず、ひたすら走ることだけを考え続けた3時間だった。

 コースは拙宅から丸子橋たもとまで1.5㎞。東京都側を丸子橋~二子玉川、二子橋を渡って、川崎側を二子橋~丸子橋~ガス橋と行き、ガス橋を渡って東京都側を多摩川大橋~更に先の六郷大橋の途中までを行く。河川敷にいくつもグラウンドが並ぶ所で多摩川大橋まで引き返し、川崎側を上流に向かい、ガス橋で東京都側に行き、再び大橋を目指し、途中で道なりに引き返してあとは丸子橋まで行く。更にそこから坂を上がって自宅に戻るコースだ。

 不思議と、いわゆる「ランナーズハイ」の状態にはならなかった。ハイになる以前なのか、足(ふるらはぎ)の痛みが気になって、これをどう克服するのか、そればかり考えていた。手持ちのエネルギー(アミノバイタル5000と、ブドウ糖)をいつ飲めば効果的なのか、500ccのスポドリはどういう配分で飲むか。いろいろ考えることはあった。
 
 とにかく走った。しかしこの時は、少し休んだとしてもあと12㎞余り走る余裕は足にも気持ちの上にもなかった。少なくとももう1度、できれば2度は30kを走って、その次を目指したい。フルマラソンを目指すというより、自分の精神と頭脳を鍛えるために。

2015年10月11日日曜日

中小企業はたいへんだ。行政の“理不尽な”要請に応えることができるのか。

 従業員170足らずの小さなカイシャの総務をやっていると、これまで大組織のいち歯車だった時とは全く違う世界が見えてくる。

 そもそも知らいないことばかりだった。社員に給料ひとつ払うのも、社会保険の引き去り、所得税の源泉徴収、住民税の特別徴収、(実際には社員からはとらないが)児童手当負担額の計算など、実に複雑で、しかも細かい知識がないときちんと対応できない。だから多くの企業では給与計算そのものをアウトソーシングしているところもあるようだが、これを自前で行うとなると毎月たいへんだ。「給与奉行」などソフトも販売されているが、だからと言ってソフトに入れてしまえば、それで終わりという訳ではないだろう。最期は手計算で「検証」しなければ、正確な給与支払い額は出てこない。

 小企業といっても「大組織」の完全子会社で、その意味では倒産のリスクはなく、仕事もまあ受注できるようになっている。それでも結構、会社の維持に神経を使うのだから、ふつうの独立した中小企業であれば、その大変さは想像に難くない。これまで大組織の中にいる時は考えもしなかったことだけど、本当に経営者は緊張の連続だろう。

 社会は善良な経営者ほど苦労する構造になっている。従業員を路頭に迷わす訳にはいかないし、様々な「お上」の要請に真面目に応えるとなると、どんどん出費がかかる。

 障害者雇用の数値目標はいま中小企業まで拡大されている。達成しないと課徴金をとられる。また高齢者雇用の圧力も強い。労基署の“回し者”が訪問してきて、会社の定年を65歳にしろと迫る。そのくせ管理職を増やすと「名ばかり管理職」ではないだろうなと、疑いの目をして、きちんと残業代を払えと無言の圧力を見せる。それではと請負で仕事を出すと、「偽装請負」ではないかと疑われ、派遣労働者を入れると、こんどは3年たてば自動的に社員化しなければならず、それもなかなかできないので、せっかく仕事を覚えてくれた人をなくなく「切る」ことになる。下請け取引で「優越的地位の乱用」はないか、3条書面はちゃんと作っているのかなど、「法律に則った対応」を求められることも多い。

 社会が人口も増え成長期にあるのであれば、多くの企業は(放漫経営でない限り)、まあそこそこ発展し、お上の要請にも何とか応えることもできただろう。しかし現代はそうではない。人口が増えないということはパイが増えない。経済学の初歩で考えても、それはゼロサム社会(この書名の本もずいぶん前だったな)で、パイの奪い合いにほかならない。単純化して言い換えれば、栄える会社と衰退する会社が半々だということだ。

 前述の様々なお上の要請も、半分の会社はこたえられるが衰退する会社では難しいということだ。竹中平蔵や八代尚宏などリバタリアンにしてみれば、こうしたことは、衰退する企業は市場から退場し、労働力も発展する企業に移っていくだけのことと、切り捨てるかもしれない。確かにマクロ的に見れば、その通りかもしれない。しかし現実はそう簡単ではない。属人的に個々の人はそう簡単には異なる職種の仕事にすぐ移れる訳ではない。それも年令がいけばいくほど、新たなスキルを身に付けるのは難しくなり、労働力の移動はそう進まない。

 そこに社会のひずみが表れる。
だからと言って障害者雇用の課徴金をやめろとか、高齢者雇用をしなくていいとか、児童手当負担金はいいらないと言っているのではない。必要なのは行政が個々の会社の「本当の実情」(重複表現でけどまさに重ねてそういうこと)を見極める目を持ち、個々の企業ごとの対応ができるような仕組みを作ることだろう。言うは易し実現するのは難しいことかもしれないけど。

 それぞれのお役所はそれぞれ崇高な目的意識を持って、日々「行政指導」にあたっているのだろう。善意に考えればね。でも、小さなカイシャで日々その窓口になっていると、あまりにも要請が多すぎるように思えてならない。アンケートの類も結構多い。「今後の政策に生かすために・・・・、ご協力を・・・」という要請文がどれも添えられている。実際に行っているのはコンサル会社で、アンケートの提出先は、そのコンサルの下請け企業だ。

 どう表現してよいか分からないけど、経済学でいう「合成の誤謬」が行政の行うことでも顕著になってきていて、行政の要請に応えられる企業は「半分しかない」ことが分かってもらえていないのだろう。何しろお役所の方々は(よっぽどの無能者か犯罪者でない限り)、自分の組織が「なくなってしまうかもしれない」ということを実感として感じることはないからだ。

PS:マイナンバーが始まる。給与生活者にとっては、これはある意味で「朗報」のはずだ。なにしろ所得隠しを防ぐ結構有効な手段だから。法人番号も始まる。こうした施策を新に有効なものにするには、それによって社会の公平性が保たれるかだろう。




 

2015年9月26日土曜日

消費税の軽減税率はむしろ金持ち優遇だ。財務省案の還付方式はまっとうだ。

○食料品への軽減税は、お金持ちほど得をする 
 消費税10%時の食料品などの軽減措置として、財務相は還付方式を打ち出し、これに対して反対の声が上がっている。政策決定の鍵を握る公明党も「反対」の動きだ。(9月26日付新聞)。
以前にも書いたが、食料品などへの軽減税率は、愚民対策としては喜ばれるだろうが、まさに愚策でしかない。
財務省(netより「引用」)
そもそも消費税は等しくすべてのものに一定の税を課すことに意味がある。かつて物品税などと言って、いわゆる「ぜいたく品」に課税していたが、時代が移り、何がぜいたく品かは定義できなくなった。だから「等しく課税する」という消費税という発想が出てきた。
多くの国で取り入れられている制度だ。
 食料品など日常消費するものに、低所得者への「配慮」として税を軽減するという発想は、一見まっとうに見える。はたしてそうだろうか。
 お金持ちは(どちらかというと)高額な食品を購入し、高額なレストランで外食する。(という傾向があるだろう)。だから、食料品への軽減税は、お金持ちにもメリットがある。いや、むしろ高級食材を購入する層ほどトクをすくことになる。
 食品にあまりお金をかけない低所得者層は、お金持ちの得に比べればわずかでしかない。この事実に着目すれば、「税の公平負担」から明らかにズレている。
大衆はなぜ小学生でも分かるこうした事実に目を向けないのだろう。“大衆政治家”も同様だ。

○低所得者対策は別の政策で臨むべきだ
そもそも年金は、物価にスライドすることになっている。消費税率が上がって、物価が上がったら、年金もスライドして上がる。だから年金生活者は消費税10%を基本的に心配することはない。もちろん十分上がらないのではないかという心配もあるだろうが、それは別の政策で応ずるべきだ。
金持ちを利する(という言い方はちょっとイヤらしいが)軽減税率より、有効は方法はある。

○軽減税率導入のコストは厖大だ。
食品の何に軽減税率を課すのか、どこに線引きするのか、だれがどうやって決めるのだろうか、どう決めようと、必ず誰かの不満が残る。また小売業者などでは、軽減税率のための手間と作業は大変だ。リンゴを売るのに、リンゴそのものは軽減税率だが、それを入れる箱は普通の税率などということが起きる。そうした社会的コストは見えにくいが、非常な損失である。

○複雑な仕組みはかえってモラルハザードを起こす
仕組みが複雑になると、それを処理する人間は負担を感じて、かえっておざなりになり、次第に形骸化していく。これは火を見るより明らかだ。面倒くさくなると、どうしても誤魔化しや不正が起きやすくなる。持続して税を納めてもらうにはできるだけシンプルにすることが必要だ。

どうしてこんな単純なことが“大衆政治家”には理解できないのだろう。もっとも愚民が選出する代表だからしょうがないけど。

財務省の「回し者」でも「お味方」でも「応援団」でも何でもない。純粋に消費税を考えた場合、10%程度の税率で軽減税率を導入する愚策に反対するだけである。
有権者も国会議員もこんなことにエネルギーを使うより、どうしたら歳出を抑え、限られた国家予算をどう使うか考えた方がいい。以上。

追伸:今週号のアエラに同趣旨の記事が載っていた。たまにはまっとうな指摘をすることもある。この雑誌は。

2015年9月23日水曜日

新安保法 どう運用するのか、これから問われるのは国民自身だ

 祭りは終わった。儀式と言ってもいいかもしれない。もともと数は決まっているのだから、採決すると決断した段階で、勝負はついていた。それを乱暴なやり方で阻止しようとするのは、単なる選挙民・支持者向けのものでしかない。
 良い悪いではない。決まったのだ。

 安倍首相は去年暮れの自らが解散して行った総選挙で、新安保法案のことは公約のひとつに掲げていた。だから今回のやり方を「有権者への裏切り」とか「だまし討ち」とは言えない。
 
 メディアはことここに至って騒ぎ立てるが、なぜ総選挙の時、もっと問題視しなかったのか。その『罪と罰』を覆い隠すために、“リベラル派”のメディアは今回の国会の内外の動きを大袈裟に報道しているように思える。「私たちはちゃんと“みんな”の思いを伝えています」と。醜いとしかいいようがない。総選挙の時、問題視しなかった理由は一切言わない。
 
 「説明不足」という言い方をメディアも“みんな”も言い立てる。はたしてそうか。政府は少なくとも、説明不足と言われないよう、結構丁寧に説明しようと努力していた。これは公平な見方だ。だから矛盾点も浮かび上がってきたし、議論もそれなりに活発だった。学者の方々の「憲法違反」の発言も率直だったと思う。
 
 だから、「説明不足」だから「この法案はいけない」というロジックはいささか身勝手だ。これもひとつの「レッテル貼り」に他ならない。「戦争法案」とか「徴兵制復活」などと言うの同様に。
安倍首相を好きか嫌いかで言えば。きらいだ。反知性的で、国会で自らヤジを飛ばす品のなさ。というよりバカぶりは醜い。しかし彼を攻める側も同じ反知性と下品で立ち向かうから、そちらの方が醜く見えてしまう。
 まあ、いずれにしても、この法案をどう使うか、または使わないのか、はわれわれ有権者に問われている。気分やその時の空気で物事を進めたらわれわれ自身がオシマイだ。

※「みんな」とは:国会前のデモの方々へのインタビューを聞いていると、よく「みんな不安です」とか、「みんなこんなに反対しているのに」などと、「みんな」という言葉がよく出てくる。この「みんな」とはいったい誰なのか。辞書的意味では「みんな」とは全員だと思うのだけれど・・・。
安易に「みんな」という言葉を使うのは賢明ではない。無意識に主体を誤魔化しているように思う。「私は・・・」と、どうして言えないのだろう、みんな


2015年9月17日木曜日

新安保法案も原発再稼働も、闘う相手は「国民自身」だ。

netより「引用」
新安保法案が参議院の委員会で採決された。昨夜から公共放送のニュースはずっと「国会の動き」を“実況中継”し続けていた。
しかし、どこかオカシイ。腑に落ちない。なぜか。
だった、国会は衆参両院とも自民と公明で絶対過半数を確保しているのだから、採決になればどういう結果になるかは小学生でも明らかだ。
 これを「あらゆる手段を使って阻止!」などという主張は、それこそ民主主義、平和主義の理念を捨てて行う実力行使でしかない。
笑止千万。結局は反対する方々の「支持者向けのパフォーマンス」でしかない。

 反対することがオカシイと言っているのではない。この法案がいいのか悪いのか、私には分からないし、内容お良し悪しを論じてる訳ではない。

netより「引用」
安倍政権を「選択」したのは、去年暮れの総選挙で自民や公明に投票した人々ですよね。安倍首相は安保法案を隠したりウソをついてこの選挙に臨んだ訳ではない。(あまり争点にはならないようにしたかもしれないけど)
 国会前でデモする人々も実力行使ではなく、安倍政権に投票した選挙民に向かって「おまえらオカシイ」と言えばいいではないか。そして次の選挙でひっくり返そうと。
決してニヒリズムで言っているのではない。代議員制というのは残念ながらそういうことだ。よく“進歩的”マスコミは国民はひとつひとつの問題で政党を信認したのではない。だから国民投票を、と主張する。確かに一理あるが、ではどんな問題が国民投票にふさわしくて、どういう問題ならば国会で決めていいのか、線引きは難しいし、基準など作れない。
 制度には欠陥がある。でもそれを選択したのなら、あきらめるほかない。「国に関わる物事はすべて国民投票で決める」という国民的合意が出来ればそれでいいけど。そうでなかったら国会の審議に委ねることが(これも残念だけど)従うしかない。
 もちろん「多数決が民主主義」だと言っているのではない。議論は絶対必要だし、民主主義の基本は、少数派への配慮だからだ。

 反原発運動にもオカシサを禁じ得ない。電力会社や政府にデモをかけてもそれはしょうがない。
一番の近道は、化石燃料や電気を使う人々に、「やめろ」とデモすることなのではないか。電力消費がものすごく少なくなれば電力会社も原発を動かす必要性がなくなるし、化石燃料を使わなければ温暖化への懸念は、少しは弱まる。
 どうして原子力発電所の前に行って、「原発反対」と叫ぶのか、まったく理解できない。それより都会の真ん中に行って、車に乗っている人々を止めて、車を使うなと言ったり、夜の営業している店に行って早く閉めろと言うのうがスジなんじゃないだろうか。
これは皮肉でもなんでもなく。
コマーシャルにあったな昔、「臭い匂いは元から絶たなきゃダメ」。

悪いのは国民自身なのだから。それは自分への自戒も含めて本当にそう思う。



2015年9月10日木曜日

NHKのBS放送から、囲碁名人戦が消えた


囲碁名人戦のBSでの放送を、「公共放送NHK」はやめたらしい。

井山祐太名人と高尾紳路天元というファン垂涎のタイトル戦は9月4日から第1局が始まったが、NHKのBS報道はいつものような放送をやめてしまった。

これで衛星放送から囲碁将棋関連の放送を徐々に撤退していた方向性が一層はっきりした。

残念というか、もったいない。
 
 かつてNHKのBS番組に「囲碁将棋ウィークリー」というのがあった。 確か土曜日の正午から1時間半くらいたっぷり時間をかけた番組だった。
内容は、囲碁も将棋も、1週間の主な対局結果を伝え、そして「注目の1番」の解説をじっくり行う。
毎回ゲストがきて、普段なかなか素顔が分からない棋士の方々の話に接することができた。そして私はこの番組が大好きだった。注目の一番では、単に対局の過程を追うだけでなく、なぜその1手が指されたか、その手の背景にはどういう意味があり、その時棋士は何を狙いにどうしてその手を指したか、ゲスト棋士がその人ならではの解釈を交えて解説する。
これがたまらなく好きだった。

 そうか、この対局者はこの1手を打つのにこんなことを考えていたんだと、知ることは、観戦ファンとしてはたまらなく知的好奇心を刺激され、感心するばかりだった。
しかし私の棋力は将棋で10級、碁にいたってはほとんど計測不能なくらいの弱さだ。しかし観戦するのはたまらなく面白い。

 「ウェブ進化論」で注目された梅田望夫さんは、私と同じような「観戦ファン」だ。(もちろん棋力は私よりはるかに上だろうが)。
「ウェブ・・・」で書かれたようには世の中は(まだ)ならなかったかもしれないが、彼の将棋に関する一連の著書は、なかなか面白い。将棋観戦ファンとして共感するところ多々あった。

 彼もどれかの著書で書いていたが、「観戦ファンだと言うと、お強いんですか?と必ず聞かれる。そうではなくて、将棋を観るのが好きというのがなかなか理解されない」と。

 野球ファンやサッカーファンは必ずしも野球やサッカーを実際に行う人ではないだろうし、行う人にしても、必ずしも得意ではないだろう。「観ることの方が好き」という人々が沢山いるはずだ。にも拘わらず将棋や碁では理解されないのはなぜか。
スポーツファンには申し訳ない言い方かもしれないが、スポーツよりずっと知的で奥が深いと思いんだけど。


 衛星放送だけではない。公共放送から将棋や碁の放送がどんどん消えている。
くだんの「囲碁将棋ウィークリー」はBSから衣替えして日曜日午前中教育テレビのNHK杯囲碁と将棋の間に短時間で放送していたが、それも今は「囲碁フォーカス」「将棋フォーカス」という30分番組で、講座と話題中心で「注目の1局」を取り上げた観戦ファン向けではない。

 タイトル戦中継は、将棋は竜王戦と名人戦、碁は本因坊戦と名人戦を行っていたと思うが、先日始まった囲碁の名人戦はBSの中継をしていなかった。

ついでに言うと、3月1日の将棋のA級順位戦最終局「将棋界の一番長い日」も中継をやめ、後日編集したものしか放送していない。

どうして、「公共放送NHK」から棋道が消えていくのだろうか。

ひとつはニコニコ動画で中継を行っていることもあるかもしれない。しかし例えばテニスではWOWOWで放送していても、NHK-BSで放送している。
棋道を愛する人が少ないということなのだろうか。

 NHKの2つのBS放送は、今やスポーツ中継、旅、自然、歌、ドラマ、モノ(あからさま商品紹介はできないから、紀行風にアレンジして)ばかりだ。
確かにそれも悪くない。しかしいくらなんでも「多様性」がもう少しあってもいいのではないか。24時間放送しているのに、

囲碁将棋番組は、そんないオカネのかかる番組ではないと思う。俳優さんを連れていく海外の旅ものひとつ作るのに比べたら安いものだろう。

将棋や碁を愛する年配者はまだまだ多いと思う。そういう「お客さん」を逃していることに気付いてほしい。作り手や番組編成を行う人々に棋道を理解できる人がいないということなのか。
囲碁や将棋の観戦は、知的好奇心を刺激する非常にいいソフトなのに。

学校教育でも棋道を取り入れるところが出てきている。日本で進化し深化した将棋。碁は中国・韓国にちょっと遅れをとっているけど、それでも東アジアに発展する「すごいゲーム」だ。

NHKの衛星放送の番組の並びを見ていると、ここにも「大衆化」の流れが押し寄せいるように思う。何とかならないのかね。梅田さんもこの状況を泣いていると思います。



2015年9月5日土曜日

東京五輪、新競技場・エンブレム問題、官僚体質が丸見えだった。

netより「引用」
責任の取り方とは難しいものだ。だれでもオレのせいじゃないと思いたいし、実際ヌレ衣もあろう。責任を取るということは、失敗を認めるということであり、それは日本では「ダメな人間」として分類されることである。サラリーマン社会では、一度そう見られると致命傷になる。官庁でも大企業でも多くの組織で、そういう人にはレッテルが張られて、昇進や処遇に響く。

五輪組織委員会や周辺組織は、まさにそうした組織の「模範」だ。
元財務次官の武藤氏が事務局長ということは、彼を支える人に官僚出身者たちが多く送り込まれていることは、想像に難くない。

彼らはおそらく優秀な人々だ、ある面で。記憶力が図抜けてよく、事務処理能力にすぐれ、前例(法律)を熟知し、政治的に動く人(まさに政治家)の操縦術を心得ている。

多くの事柄・課題をそつなくこなし、少しのミスもなく成し遂げていることだろう。それが彼らの評価につながり、次のステップになる。財務官僚であれば地方の税務署長を20代で務めるのと同じように、組織委員会などで「国の仕事」をこなし、その評価をもって本庁に凱旋するのが目標だ。

だからどんな小さなミスでも責任をとりたくない。私が間違っておりました、などとは口が裂けても言えない。言ってはいけないのだ。彼らにとっては。

新国立競技場問題が世論の批判を浴びてどうにもならなくなっても、エンブレムの“疑惑”が沸点に達しても、積み上げてきたことを撤回することは、自分の非を認めることになり、彼らにとっては「あってはならないこと」なのだ。だから結局対応が後手後手に回り、政治決断という「天の声」があるまで事態は止まらない。

武藤氏の先日の会見での責任の取り方に関する答え方にそのことがよく表れていた。無責任、どこか他人事という批判がメディアでなされたが、そうした「背景」を考えると驚くに値しない、予想されたことだった。

だって日本はずっとよれでやってきたじゃないですか・・。戦争責任にしても、何にしても。

アメリカのことはよく知らないが、自分の少ない読書の中から思うのは、かの国には「失敗してもやりなおせる」仕組みや、風土があるらしいということだ。だからチャレンジもできる。

経営学や組織論などでは言い古されたことだが、「失敗してもやり直せる仕組み」「チャレンジ精神が発揮できる仕組み」が求められている。しかし日本ではそんな理想論は通用しないだろう。これからも。そういう国なんだから。
それで良いとか悪いとかでなくて、そういう国なんです。変えようとしても変わらないダメな国、日本は。


ついでに、デザインの変更過程が選考委員に知らされていなかった問題にもひとこと。
これも極めて官僚的手法でコトが進んだということだ。

通常、法律が国会で成立すると、官僚は政令を作る。また権力をバックにした指針、行政指導を行う。国会の決議で決まる法令には、あまり細かいことは書いていない。いわば精神だ。詳細を取決めるのが政令だ。政令は国会審議を経ないから官僚の意のままに作られる。そしてコトは彼らの思うように進む。(もちろんそれが全て悪いコトだと言っているのではない。透明性の問題だ)


政令を決めたら、おそらく国会の有力議員さんのところは持っていって、これでいいですねと「確認」を取るのだろう。その時議員は、もともと大元の法令に賛成しているから基本的に反対する真理にはならない。そこで官僚から分厚い資料で細かい説明をされてもにわかには理解できない。それで、「わかった、わかったそれでよい」となり、かくして官僚の思うとおりの政令が出来上がる。

エンブレムのデザイン専攻もまさにこんな構図で進められた。
誰の作品を選ぶかは選考委員さんがお決めになり、佐野研二郎の作品が選ばれた。しかし細かい修正はいちいち選考委員にお伺いを立てることなく、官僚たちが勝手に進めた。そしてもう反対する雰囲気のないところで、選考委員の示して、「これでいいでございますね」と言って決まるのだ。

優秀な官僚の方々にひとつ欠けていることがあるとすれば、「大衆の空気が読めない」ということに尽きるだろう。彼らにとって「大衆」は、自分のアタマで考えない人々としか見ていないから、彼らの気持ちを読む気にならない。だからしばしば「大衆の反逆」に遭遇する。

もっとも大衆的発想に抗って国のかじ取りをすることも必要なので、それがすべて悪いことではないけど。時には大衆の発想の方が「正しい」こともあることを忘れないことだ。


書いているうちにまた思いだしことがある。かつて細川政権の崩壊につながった「国民福祉税」構想は、そんな大衆の空気が読めなかった官僚によって作られた原案だったな。多くの国民は非常な唐突感を持った。しかしずっと、国の財政危機についてそうすれば良いか考え続けてきた官僚たちにとってはまったく唐突でも何でもないことだったのだろう。お気の毒に。



2015年9月4日金曜日

五輪エンブレム「似ている」と「マネした」は別問題だ。話しは分けて考えるべき

東京五輪のエンブレム問題で揺れている。佐野研二郎氏が“デザイン”した(らしい)ものは、様々に「疑惑」が出て、結局取り下げたのは、各メディアの報道の通りでしょう。
一連の報道で気になったのが、佐野氏の問題である「模倣」と、デザインの問題である「似ていること」がどうもごっちゃに報道されてきたことだ。

すべてのメディアをチェックした訳ではないけど、公共放送のニュースを見ていて、内容に疑問を持った。
「似ているという指摘に対し、佐野氏は模倣を否定しています」と、いう言い回しがよく出てきたが、このニュースは模倣について掘り下げたニュースなのか、似ているかどうかについて検討したニュースなのか、よく分からなかった。

似ているがどうかは、一目瞭然だろう。多くの人が「似ている」と感じるのは疑いのないところだ。デザイナーなど「専門家」は、シンプルなデザインでは結果として似たデザインになると、ご主張なさっているようだが、それはその通りであり、似ているものを許容するのかどうかと、似ているかどうかという受け止めの話しをごっちゃに1本のニュースで伝えては、何も伝わらない。少なくとも、ニュースの意味を理解できない。

一方佐野氏が「模倣」したかどうかは、突き詰めればそれは心の問題であり、証拠を示すことなど不可能に近いし、追求することに余り意味はない。
本人は「模倣」した意識がなくても、どこかで見た記憶が脳の奥底に残っていて、それがデザインに無意識に反映されたかもしれない。(フロイト的に言えば「前意識」ですね)
そうであれば、「模倣」は否定するだろうし、それはウソではない。無意識のことなんて人間だれにでもあり、そんなもんだ。

 五輪のエンブレムとして何が問題かと言えば、似ているかどうかだろう。結果として似ていることが分かれば、そのオリジナリティーは薄まるのだから、「代えてもいいんじゃねえ」となるだろう。

少なくとも言えることは、佐野氏には「模倣癖」がありそうだといことだ。数々の指摘を見れば、彼の性癖は推して知るべしだろう。そういう人間だということだ。

余談ですけど、我が家で愛用している山形のおいしいコメ「つや姫」の袋のデザインも佐野氏だったと知り、少々がっかりしています。

余談2.
「模倣癖」で思い出されるのはあの、一昨年亡くなった山崎豊子の「盗用癖」だ。そりゃ、数々の優れた作品を世に出してきたかもしれないけど、たびたび、他書著からの「無断引用」を指摘され、それでも治まらなかったのは、彼女の「盗用癖」という病理のためだった。と、思う。

メディアは山崎が亡くなった時、(私の知る限り)まったくこのことに触れなかった。別に亡くなった方にムチ打つことはないが、きれいごとばかりでなく、史実としてきちっと伝えることも必要ではないのかね。



2015年9月3日木曜日

古市憲寿「もう誰も戦争を知らない」(新潮45 8月号)は、非常に優れた考察だ。

古市憲寿さん(netより「引用」)
 古市寿憲さんは若手も論客の中でも、注目している。(すみません、あの髪型はあまり好きではありありませんけど)。
 
 近隣諸国、特にあのアジア太平洋戦争で日本が占領した国々では、ここのところの対日関係もあり、「戦後70年」を国内的にうまく「利用」していることは、ここでは置くとして、それにしても戦後70年とは何だったのか、冷静な考察が必要だ。古市氏が新潮8月号に寄せた文章は、すぐれて本質をついたものだった。「もう誰も戦争を知らない」


(いつものように図書館では9月号が発売にならないと8月号が借りられないので1か月遅れです)

20130806朝日新聞から「引用」
古市氏は2013年8月6日の朝日新聞に寄せた一文でも「平和の記憶から始めればいい」と、戦後という枠組みにこだわる風潮に、疑問を呈して、問題提起していた。(いい文章なので切抜きしてました)

古市氏の「新潮45」での主張は極めてまっとうだ。
 「このままでは戦争語りが「学校の怪談」や都市伝説化する。悩ましいのは、歴史の怪談、都市伝説化に抗うのは意外と困難だという点。きちんとした証拠に基づき、論理的整合性に配慮する歴史学よりも、何となくの根拠で伝えられる物語のほうが人類にはなじみ深い」と、戦争語りの陥穽を指摘し、

戦争全否定派はとにかく恐ろしさを説く。しかしこれらの情報は決して嘘ではないが戦争 のすべてではない。あの戦争は軍部の暴走だけで起きたわけではなく、背景には国民の圧倒的支持があった。特に開戦初期には多くの国民が戦勝報道に熱狂し、メディアや軍事産 業は大きな利益を得た。」「戦争肯定派はとにかく気持ちのいい話を好む。日本はアジアの国々から感謝されている。帝国陸軍の兵士はみな起立正しく国のために命を捧げた。しかしアジアに厖大な犠牲者が生まれたのは疑いようのない事実。ほんのわずかな例から日本賛美の物語を紡ぐのは都市伝説と変わりない。」と
左右の論壇のありかたの欠陥を分析、

そして
仮に戦争体験ができるだけ正確な形で伝わったとしても、それがどれほど意味のあることかはわからない。それこそ「戦後70年」特集でよく見るのは、あの悲惨な戦争を繰り返さないで平和な世界を作りましょうというメッセージ。しかしあの戦争と平和構築を安易に結びつける議論が非常に危険だと思う。なぜなら現代世界で起こっている戦争は70年前に終わった戦争とはまるで別物だから。」と、現実を見据えている。

戦争の記憶が風化してからのほうが、僕たちはより『戦争』をフラットに見ることができるかもしれない。同時に都市伝説化、怪談化も進むけど。だがそれほど心配していない。(時間がたては)冷静な議論ができる時代は絶対に来る。日中韓の関係もまた押してしるべし。」と結んでいる。

 言うまでもないが、古市氏は、「加害者としての日本という主体を忘れてもよい」と言っているので
はない。また、語り部を使命と思って、原爆体験や空襲体験の語り部たちの活動を否定しているの
ではない。平成生まれれの人々に、「語り継ぐ」ことがどれほどの意味があるのかと疑問を呈して
いるのだ。
これって、とかく何でも情緒に流される日本人(という再帰的な存在)には、けっこう大事な指摘だと思います。




「無駄」とどう向き合うか。西成活裕さんの著書から考える。


世の中、突き詰めると、「『無駄』」をどうするか」のために生きているような気がする。
 カイシャでは経費節減、業務の効率化、経営資源の有効活用などという言い方で、日々「無駄」と闘うことが日常業務だ。ヘタすると、社会的価値を生み出すという企業本来の目的がどこかに消えて、無駄をなくすこと自体が目的になってしまった錯覚に陥りかねない。

 ともあれ、無駄はなくしたいというのが、私生活でもあることは確かだ。ムダなお金は使いたくない。時間のムダもいやだ。日々、無意識に「無駄」と闘っている。

 なぜか、2008年刊のこの、西成さんの書籍を買って読んだ。「渋滞学」のあの人だ。夏前に新潮選書の書籍目録が新宿紀伊国屋に置いてあって、それを家のソファーに寝転がって、何かいい本なないか“物色”している時に気に留めた1冊だったからだ。
 
 もちろん「無駄」ということに、ことのほか関心があり、「合理的」であることをこのやく愛する性格も作用した。
 一読して「う~ん」とうなってしまった。「学問」と言うには、有名な「渋滞学」の域に届いていなかった。前半は「学」になろうとして言葉の定義や論理を展開し、中盤は「トヨタ生産方式」の具体的な紹介。後半は西成さんの社会に対するエッセイだった。
 
 決して内容が「無駄」だった。読んで時間を「無駄」にした、ということではない。トヨタ生産方式をこれほど具体的に読んだことはなかったし、エッセイも「無駄」という視点から、エンデの「モモ」から、「成長の限界」まで、さまざま知識人の著書が簡潔に紹介されているという点では、「無駄」を再認識するきっかけにはなった。

 でも一番印象に残った、実用的な記述は、結局「高速道路で車間距離を40メートル以下にすると渋滞が起きる。だから車間距離を詰めないことが肝要だ。」ということだったかもしれない。

 西成さんは「直観力」についても述べていて、これはこれで参考になる話だけど、直接「無駄学」とは関係ないお話だった。

断わっておくが、この書籍をけなしているのではない。とにかく最後まで読んだ。でも「渋滞学」のように後世まで残るテキストではなかったということかな。無駄について改めて深く考えるきっかけにはなったけど。