2017年1月28日土曜日

歴史と向きあう『日本書紀の呪縛』・・・「将来に向かって生きようとするものは過去に向かっても生きなければならない」

 正直に言うと、学生時代「歴史」をきちんと学んでこなかった。中学、高校を通じて日本史、世界史ともあまり好きではなかった。あのころ歴史に関する書籍もほとんど読まなかった。(読んでいたのは、もっぱらライトな小説とルポルタージュだ。)
だから歴史の基本的知識も乏しい。今から考えるとよく大学の文系に入れたと思う。(地歴の代わりに数学で受験できるところしか受けなかったけど)

 「歴史」を少しはまともに考えてみるようになったのは、恥ずかしい話、社会人になってからだ。まあそんなことはどうでもいいけど、日々生きていていつも頭によぎるのは、タイトルの言葉だ。これを知ったのは、ハーバード大学教授の入江昭さんの新書「歴史を学ぶということ」のあとがきだ。

オスカーワイルドの戯曲「ウィンダミア卿夫人の扇」から。『将来に向かって生きようとするものは過去に向かっても生きなければならない』

 メモに書きとめておいた。
時事的問題について考える時も、日常の雑事(親の介護など)について考える時も、この言葉は、生きる上で大切だ。

『日本書記の呪縛』は一気に読んだ。

 先人の研究成果を丁寧に紹介し、そこに著者の説得力ある見解を静かに記している。納得感が得られる新書だ。

 歴史に真摯に向き合おうとする研究者の誠実さを感じる。まだま解明すべき歴史の課題が日本古代史にも相当あることも分かった。

法隆寺⇒聖徳太子⇒17条の憲法 などという図式は、自分の中に刷り込まれている。中学の教科書にもそう書かれている。でもそこから“違う”ことをきちっと理解していないといけないことを改めて認識させられた。
 近代の歴史を自らに都合よく書きかえようというたくらみは、日本でも中国でも韓国でも、行われている。だから、良識的に人々によって歴史の共同研究が行われているのだろうけど、国家権力はそんなことはおかまいなしだし、偏狭な考えから抜け出せない一部の大衆の行動も同様だろう。
 APAホテルに置かれている『書籍』問題が最近話題になった。札幌・帯広で冬季アジア大会が開かれる。少なからず摩擦を生むのは明らかだ。反対に慰安婦像についても同様だろう。“良識的”な人々(リベラルな方々)にとっても、おそらく困惑している問題だろう。
 自分の考えに都合よく解釈する。これもナルシシズムの心情にほかならないけど。
 人は誰でも思いだしたくない過去もあろうだろう。しかしそれに真摯に向き合う胆力がなければ未来は開けない。






2017年1月21日土曜日

ガラガラ族にちょっと一言 音に対する懸念

 一昔前、「ガラガラ族」などという言葉が流行った?。若い女性がキャスター付きの小型のカバンを引いてあるく姿だ。(「ガラガラ族」でgoogle検索したけど、それらしいものは出てこなかった。違う呼び名だったっけ!)

 最近は外国人観光客も増えたせいか、このカート式の大型カバンを引いてあるく姿がけっこう目につく。私の通う都心の公共スポーツ施設でも、大きな荷物をボストンバックでなくガラガラで引っ張っている人が目立つ。
 
 このスポーツ施設には、目の不自由な人もけっこういる。マッサージで勤務しているいつも見かける人、施設を利用する人など立場は様々だけど。

 JRの駅から、この施設に行くには信号を渡る必要がある。目の不自由な人にとって、おそらく一番緊張するところだろう。信号が変わったかどうかは分かりにくいからだ。音だけが頼りの瞬間かもしれない。
 ガラガラ族がカートを引く時の音は、結構でかい。点字ブロックがあるようなところでは、それが一層増幅される。街中の喧騒の中にあっても、その音さえもかき消すくらいだ。

 ここまで書けば、この文章の「結論」は書かなくても分かるだろう。そういうことだ。
ガラガラ族には、悪意もなにもない。自然体だ。しかし彼らの出す音は目の不自由な人にとっては、大きな「障害」になっている。

 いつも見かける施設のマッサージの人でさえ、慣れている道だろうが、ガラガラが横を通り抜けるとき、立ち止まり、戸惑いを見せていたのを見かけた。(気のせいで、杞憂であればいいけど)

 悪意なきことほど面倒なことはない。悪意あることであれば、止めろを言えるけど、そうでないことは、どうしていうのか。難しい問題ですね。
 
 

母親にナルシシズムを感じとるのは酷な見方だろうか。電通「過労自殺」についての違和感 その2

 本日(2017年1月21日)の朝刊で、電通と“過労自殺”した女性社員の遺族が合意書を交わしたことが報じられていた。そして母親が会見したことも。
 繰り返しになるが、過重な労働は容認されるべきではなく、ましてそこにパワハラがあったとしたら、許されるべきものではないのは当たりまえだ。その意味では電通女性社員は間違いなく犠牲者であろう。
  電通(だけでなく、多くの古い体質の企業。自身の世話になっているカイシャも含めて)は、働き方の考え方を変えていく必要がる。それは多くの人の同意を得られることだとも思う。

netより「引用」
そのことを前提に、もう一度振り返る。女性社員は過重労働を続けているさなかに「自殺」したのではなかった。長時間労働が引き金になったと思われる「うつ病」を発症し、そして休んでいる時に自殺を図った。(と報道からは認識しているけど、これが事実関係かどうか教えて)

 うつ病の人は自殺を考えるものだ。と、かつて医師に言われた。だから周囲や医師は自殺をしないように対策を立てる必要がある。それが「治療」の一貫でもあるだろう。
 
 彼女は自殺した。母親はそのことを悔いている。体調を崩して休んでいる娘に対して母親は、もしかしたら励ましの言葉をかけていたのかもしれない。だって、家族の期待を背負って一流企業「電通」に就職したのだから、なんとか頑張りなさいよ、と。それは想像に難くない。母親のこれまでの会見からも、彼女への期待がにじみ出ていた。
 
 治療中の彼女にとって、休んでいる間の家族・家庭はアジールにはならず、期待に応えられない自分を責めて、自殺したのかもしれない。それはわからない。

 報道で母親が涙ながらに訴えている姿を見ていると、ナルシシズムを感じ取ってしまうのは、冷酷な見方だろうか。母親自身、自分の振る舞いに悔いて、それが電通に向かっている面は、はたしてないだろうか。

 母親が娘の写真を掲げて会見する姿に、そんな匂いを感じてしまう。何度でもいうけど、だから企業の側(電通や同様の体質のカイシャ)が免罪されるわけではないし、まして擁護しているわけではない。
 
 こういう状況では、母親に対して「批判」を加えることはタブーだ。絶対善として扱われるのが報道の常だ。ましてマスメディアと言われるところはそうだろう。

 でも冷静に、うつの治療にあたった医師はどう対応したのか。母親はどういう言動を娘に対してしていたのか、冷静に分析することからでしか、正しい解決法は見いだせない。

 うわべの報道からだけで、「働き方改革」をはじめ、さまざまな労働施策が作られていくとしたら、それは不幸なことだ。


***********

  電通では10年前にも自殺した社員がいたといいうが、私が31年勤務した企業体では少なくともその間4人の自殺者を知っている。その中には一時期いっしょに仕事した人もいる。それは若手社員ではなかったけれど、(むしろベテランの人)、何らかの心の病があったのは確かだろう。

 精神科医の和田秀樹さんの本を読んでいたら、中高年になるほどうつは増えると書いてあった。体感としてはあまり感じていなかったけど、言われてみると自殺した人などから、医学的にはそうなのだろな。

働き方改革の必要性は強く感じるし、是非改善が進むように努力していきたい。
それと「うつ病」治療、自殺予防は、分けて考えるべきだろう。話をごっちゃにしている、正しい解決策が見いだせないのは、どんなことでも同じだ。

2017年1月11日水曜日

『東京都 賞味期限切れ前の備蓄クラッカー無料配布へ』から読み取る、官僚的振る舞い

8日朝のNHKニュースで伝えていた『東京都 賞味期限切れ前の備蓄クラッカー無料配布へ』は、結構いろいろなことを“教えてくれる”内容だった。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170108/k10010832181000.html

記事の趣旨はこうだ。東京都が災害に備えて備蓄してる非常食料のうち賞味期限が迫っている10万食を希望者に配布するというもの。これまでは廃棄処分していたものを小池知事の「もったいない」の精神で、個人やフードバンクなどの運営者など必要な人たちに無料で配布するというものだ。

 このニュースを見ていて、家族の反応は、「なんてこれまでもったいないことをしてくるんだ」というものだった。フツーの人から見れば、それはまっとうな感想だろう。
 しかしこれに対して、私は違う「考え」を示した。

 非常食の備蓄を担当する「係」の人は、賞味期限が来たときどう考えるだろう。普通の感覚の人ならば、これを有効に利用できないか。と思うに違いない。
 ・恵まれな人に配る。・市民に放出する。・イベントなどで景品にする。などいろいろ思いつくだろう。そして「係」は、上司に相談する。有効利用する道を考えましょう。上司も普通の感覚ならば、そlれはいいと思うかもしれない。しかし、官僚機構(役所だけでなく、民間会社も同様だ)に属する人間の発想はちょっと違う。
 賞味期限切れ間際のものを無償で配布したら、どういう反応があるだろうかと考える。好意的な反応がたとえ9割だったとしても、優秀な官僚は残り1割の反応を考える。
 そんな、賞味期限切れ間際の食品を配るなんてオカシイ。それを食べた人に何かあったらどうするんだ。と言った反応をする大衆は必ずいる。現代ならそうした極少意見は、ネットで増幅され、あっという間に「炎上」するのがオチだ。
 そうなったら、「係」や「上司」はどうなるか、もっと上の上司に呼ばれ、組織に面倒を起こしたと責められる自分を想像する。それは賞与査定や考課、昇進に影響する。
 
 かくして、そんなことになるならば、そっと廃棄処分すればよい。新たな予算で備蓄を買うことになっているのだから、何の問題もない。と考えるだろう。かくして非常食は利用されることもなく、これまで廃棄されていった。
 
 市民感情からはヘンかもしれないけど、これが現実だろう。
『日本という国』では、こういうことはトップが言わなければ何も動かない。「係」や「上司」がどうしてこれまでやってこなかったの?と聞かれれば、こう言うだろう。
「私ももったいないから有効利用できないか考えていたけど、そういう指示がなかったからできなかったんです」と。
 『日本という国』『都庁(役所)という伏魔殿』それ現実だ。
家族はその説明に納得した。


2017年1月7日土曜日

子どもの貧困と、どう向き合うか。「ヒトゴトではなくジブンゴト」

 「情けは人のためならず」という格言は、よく小中学校で意味を間違えやすい事例として出てくる。
 知らない人間が言葉をそのままとれば、どうしても「情けは人のためにならない」と受け取られてしまうのは、いたしかないかもしれない。
正しい意味「(他人に)情けをかけることは実は自分のためなんですよ」ということは、でもちょっと利己的な雰囲気もあり、少々いやらしい。

 『子供の貧困が日本を滅ぼす』(文春新書)は、その意味で、タイトルがちょっといやらしい。キャッチな言葉ではあるけどね。おまけに帯には大きく「あなたの生活が壊されるのだ」とある。ますますいやらしい。まあ、手にとってもらうためにしょうがないのかもしれないけど、ありていに言えば、「大衆に媚びる」タイトルだなあ。

 だけど、本書の内容はタイトルとは裏腹に論理的・実証的であり、真摯な内容だ。社会のありかた、人生の持ち方を考える上では、一読の価値ある本だ。

 「子どもの貧困」問題を他人事と切って捨てないで社会全体で考えることの大切さを、丁寧に説いている。「ヒトゴトではなくジブンゴト」として。
 
 自分だけ(一部の人)だけが豊か(金持ち)になる社会を想像してみよう。そういう人たちはお金で様々なモノを手にいれることができ、様々な体験を積むことができる。(と仮定しよう)。でもいったん外に出ると、そこは貧困社会だから、治安も悪い。身を守るために厳重に管理された家に住み、厳重に安全策が取られた車に乗り、もっと言えばボディーガードをつけなければ外を自由に歩きまわれない社会だ。そんな社会がはたして住よいのだろうか。コストもかかる。
  経済から考えても同様だ。お金持ちが使う道具、車・家、着る服は、数が少ない分割高になる。選択肢も少ない。
 
 一方、均一にそこそこ豊かな社会を概観してみる。フツーに外に出ても治安もよく自由に様々な所に安全に行ける。多くの人が同じようなサービスを享受でき、同じように暮らせる。少なくともこれまでの日本社会はこちらに近い社会だったのではないか。

 もっとも「ウサギ小屋」と揶揄される狭隘な住宅や、「通勤地獄」「受験戦争」などさまざまな弊害がまったくない訳ではないけど。それでも、安心・安全な社会は、比較対象で言えば世界の中で獲得していたのだと思う。

 巷間言われる「格差社会」。
もう聞き飽きた言葉と拒否反応を持つかもしれないけど、ここらへんでもう一度、社会のありかたを自分のこととして考えてみてもいいのではないか。
 
「情けは人のためならず」とは、そういうことを言っている格言だと善意に解釈できる余地はある。

 で、「子どもの貧困」問題。阿部彩さんの岩波新書もかつて読んだけど、これはこれで充実した本だ。ただ、新書として読むにはちょっと堅苦しく感じることがないではなかった。(それだけに著者は聡明なのかもしれないけど)

池上さんの本は立ち読みでパラパラめくっただけど、『子供の貧困が日本を滅ぼす』にも一部引用があるなど、それなりの本だろう。
 
 子どもの貧困問題、ひいては貧困家庭そのものにもと社会が目を向けて、手立てをすることが、いわばwin win になるということ。その大切さを改めて認識する好著だ。

ちなみに、子どもたちに一番なにが必要か。それは幼児期からの動機づけだ。信頼する心が育っていることだ。
幼児期からの「動機付け」で一番大きな要素は「Grit」=「やり抜く力」だという。

ブログは書評ではないので、内容に関する記述は避けるが、第5章でシカゴ大学・ヘックマン教授の大規模な実証実験が紹介されている。非常に興味深い。「恵まれない境遇にある子どもたちに対する投資は公平性や社会正義を改善すると同時に、経済的な効率性も高める非常にまれな公共政策」という言葉は印象的だ。

 日本での「子どもの貧困対策」がどう行われているかも紹介されている。

ちょっと脇にそれるけど、テレビや新聞の企画記事で伝える「子どもの貧困問題」は、その多くが、〔深刻な実態ルポ〕⇒〔篤志家による援助〕⇒(問題提起としての)政策の“不足”という図式で描かれている。テレビ企画、読み物としてはそれが一番「受けがイイ」ということなのだろうが、そうした企画自体が“貧困”だ。
 
 最近、どこのテレビだったか失念したけど、子どもの貧困を扱ったテレビの番組で、貧困とされた少女がスマホを使っていたことをオカシイとして炎上した例があった。断片的、部分的にしか伝えない(作り手は全体像を伝えているつもりでも受け取る視聴者はそうではない)企画では、かえって間違った認識が広がる好例だろう。

 社会を悪くしているのは、社会の木鐸たるメディアそのものなのだ。

ちょっとそれたけど、一読に値する本を紹介。


 
 


2017年1月3日火曜日

橋本崇載八段頑張れ!。将棋界の将来はどうなるのか。結構心配している。

 将棋が少し好きな人なら、橋本崇載 八段を知っているだろう。山嵐のような髪の毛でNHK杯でも対局し、異彩を放っている棋士だ。解説も結構上手で、私は隠れファンのひとりだ。(隠れなくれもいいんだけど。表だって応援していないという意味でね。)

 その彼が暮れに出版した「棋士の一分」はたいへん興味深い。将棋に感心のない人にとってどうでもいいことかもしれないけど、それはどの分野でも同じだ。私にとって、ゴルフ界が将来どうなとうろかまわないし、プロレス界がどうなろうと全くどうでもいいことのように。

 しかし将棋という「知的」なゲームの魅力や有用性は、スポーツとはちょっと違うかもしれない。

 わずか600万人ほどしかないという将棋人口にあって、「トーナメントプロ」が今後も存続するかどうかは、棋士界にとて大きな問題だろう。それに対してなんら有効な手が打てない将棋連盟に対し、危機意識が足りないことを冷静な筆致で警告している。

 強烈な個性の米長邦雄という前の将棋連盟会長の利にさといことを率直に批判している。もちろん彼の功績も認めつつだ。(私は米長はもともと嫌いだ。)

NETより「引用」
棋士の数が多すぎること。現在のフリークラスのシステムでは実力のない棋士の延命ばかり図られていること。IA(人口知能)のソフトとの対戦の是非、新聞社に頼った棋戦の運営など、将棋界の抱える問題をずばり指摘している。橋本さんは単に批評家になっているのではなく、実際に理事選挙に出るなど行動を起こしているから、この書著にも説得力がある。

 IAソフトついては、折しも1月3日(本日)のアサヒの朝刊に将棋、囲碁ともに佐藤名人、井山6冠が対局することが、2人のインタビューとともに1面を割いて“肯定的に”報じられていた。

 一昔前、職場では昼休みのひと時や夜勤の空き時間に将棋を指す光景は結構目にした。職場のみんなで泊りがけでスキーに行った時など、必ず将棋盤を囲んだ。しかしそうした光景は今や見られない。
 まして人口減少、子ども人口が減っている中で、将棋は風前の灯のようだ。かつてくらしていた東京の私鉄沿線の駅の近くに将棋道場があったけど、今はもうない。

 橋本氏は書く、「ある新聞社が賞金を値下げすると言い出したら、他の棋戦を持つ新聞社も追随するかもしれない」と。いまや将棋面は部数増加になにも貢献していないというのが現実だろう。せいぜい新聞のオールドファンをつなぎとめているだけかもしれない。

 将棋を指すのは「苦手」だ。市販の安いソフトでもすぐに負けてします。しかし、前にも書いたけど、棋戦を見て、その解説を聞くのが大好きだ。ある一手の背景に、どれほどの思索があり、戦略があり、トッププロが能力の限りを絞り出して放った一手であるか、それを見せてくれることはこの上ない魅力だ。
 NHK衛星放送から将棋中継が消えたことを非常に嘆くとともに、憂える。ニコ動ではどうにもついていけない。

 橋本八段。頑張れ。普通、私は他人に対して「頑張れ」とは言わない。常套句の「頑張ってください」という言葉の欺瞞性が嫌いだからだ。だけど、今回は橋本氏に対して、頑張れと言いたい気分だ。もう二度と理事選挙には出ないと書いているが、ぜひ出てほしい。改革する意志のある人が将棋連盟の執行部に入るなら、いくばくかの寄付なども含めて応援したいと思う。