2017年8月26日土曜日

日本で最も『無法地帯』な所とは。…死と隣り合わせの恐ろしい場所

netより「引用」
日本で死と隣り合わせの無法地帯は、歌舞伎町でも西成地区でもない。それは高速道路上だ。遵法者が小さくなり無法者が優先される、それがある意味当然のごとくなされているところだ。
 日本の高速道路はいつから制限速度が150㎞/時になったのだろう。
走行車線は100㎞以上、115㎞くらいが今や普通だ。追い越し車線は100㎞で走っている自らの車との相対速度で勘案すると140~150㎞は出している車は頻繁にくる。
 追い越し車線を110㎞くらいで走っていると、車間距離をとらず後ろにぴったりついて威圧する。たいていの車(自身も含めて)はよけることになる。無法者が最優先されることが当然のごとくに。
 なにも、すべて100㎞以下で走らなければならないと、模範警察官の答弁みたいなことは言わない。今の車の性能や安全性から言えば、体感として十分な車間距離や混雑がない状態なら120㎞くらいは、まあ正常な運転だろう。実際、オートクルーズは114㎞を限度に設定できる。他の車を見ているとだいたい同じスピードなので、運輸省の指導かなにかで、この早さが、全車共通なのだろう。それはそれで合理的スピードだと言える。
 しかしだ。150㎞前後で走る車はどう見ても異常だろう。第一に危険だ。またこういう車に限って、車間距離を取らない。一歩間違えば大惨事になる運転であることは間違いない。大谷投手の投球じゃあるまいし、いくらなんで速すぎる。
 かくして高速道路は、危険をかかえた無法者が最優先される日本一の場所と化しているのが実態だ。そう感じている人は少なからずいるのではないだろうか。違反にも限度があろう。それが常識というものだ。 
 「警察はもっと取り締まれ」なんて、バカ老人の叫びみたいなことは言わない。警察だって、高速道路の取り締まりばかりに税金を注げないだろから、限界があることは分かる。ならば効率のいい、安全対策を施すことはできないだろうか。
 たとえばドライブレコーダーを利用して、後ろから煽る車や危険な追い越しをする車の映像が、健全な車から提供されたら、それをもとに「警告」を発することを簡便に行えるなど、税金をかけずにできる方法は考えられるように思う。
 ちなみに我が家の車には後ろにもドライブレコーダーを付けてある。これは前の車につけていた後付のドライブレコーダーが余ったこと。荷台にAC電源があるからでもあるけど、後ろから煽られた時の証拠は残せるようになっている。時間があれば危険な目に遭った時の映像を使って、「告発」できることもできるけど、いまはそんな時間的余裕がないのが残念だ。
 こうしたことを書いていて思い出した本がある。 松本清張の「速力の告発」という短編だ。netで調べると、「分離の時間」というタイトルの文庫に入っている。内容は忘れてしまったが、netによると、「自動車メーカーが交通戦争の凶器を製造しても何も責任をとらないことへの告発」と書いてある。今や自動車メーカーは安全装置で競う時代になっている。松本清張が「速力の告発」を書いた時代からは、本当に隔世の感がありますね。
 それはそれとして、「新・速力の告発」として、この拙文に冠したい。
 
 しつこいようだけど、平穏に暮らし、レジャーに時々高速道路を使用する者にとって、異常なスピードを追求するバカに道をお譲りしなければならないのは何とも理不尽に思います。しかも一歩間違えばそれは死に直結することなんだから。

 こういう輩でいつも思い出すのは、教育学者の苅谷剛彦氏が指摘している、「現在の生活を楽しもうと意識の転換をはかることで、自己の有能感が高まる」(「階層化日本と教育危機」)だ。リテラシーが低い人ほど、自己肯定感、万能感が強いという分析だ。これはいろいろなところで感じることでもある。
 ちょっと関係ないかもしれないけど、もうひとつ思いだしのが、死んだ登山家と生き残っている登山家だ。すでに25年も前のつたない経験だけど、ヒマラヤ登山の同行取材で出会った登山家たちの中で、自信家だった若者は小さな雪崩であっさり死んだ。10人登っていて死んだのは彼ひとりだけだった。今から考えると雪崩というほどのものでもない、限定的な表層雪のスライド程度だったのかもしれない。反対に長く登山家として地道に活躍している知人は。いつも、ある意味で山を怖がっていた。(ように思う)
 正しく怖がることの賢さを、彼は認識していたのだと思う。いろんな意味で尊敬できる人だ。
 どんどん話がそれてしまいますが、まあ高速道路は本当に怖い。正しく怖がって、運転するのが肝要だ。危険を回避するのもひとつの能力だからね。


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