2017年10月21日土曜日

福井県池田町の中学生の自殺「事件」。丸山真男の「抑圧の移譲」を思い出した。僻地校での抑圧とは

 福井県池田町の町立池田中学校の2年生だった当時14歳の男子生徒が今年3月、校舎から飛び降りて自殺した問題。町の教育委員会が設置した第三者委員会は担任や副担任から繰り返し厳しい指導を受け、追いつめられて自殺したとする調査報告書を先日(10月15日)公表した。
 自殺した中学生に心から冥福を祈りたい。すでに成人したが、同様に子どもを持つ身として親御さんの無念さ、悔しさ、そして「見殺し」にした、周囲の教師や教育委員会への怨念は察して余りある。
 「死」の代償は、きちんと支払わなければならない。担任、副担任の直接の加害者だけでなく、それを許した面々の責任は、それこそ「命」よりも重い。当然の話だ。Net上には、すでに担任、副担任、校長の名前や顔写真が載っている。それはそれで今回の事態に怒りを感じる人々の溜飲を下げることにはなるが、そうした「私刑」だけでは、問題の本質には迫れないだろう。この「事件」には構造的な問題があるからだ。教師集団というヒエラルヒーの構造的問題だ。
 
 池田町のホームページによると人口は3000人に満たない。町の中学校はひとつだけだ。問題の中学校が福井県の中で「僻地指定校」なのかどうかは分からない。しかし全校生徒40人足らずしかいないとなると、片田舎の小規模校であることには変わりない。校長はそれなりの年齢だ。他校に転勤したという男性担任は30代だという(朝日新聞)。中堅になる年齢だろう。校長はまだしも担任はなかなか同じ福井県の都市部の学校にはいけなかったのだろう。同期の教師の中には県内の“進学校”で、バリバリやっている者もいる。焦りや腐りがあっても不思議ではない。そのストレスのはけ口が自殺した生徒に向けられた。もしくは、この担任は自分がいかに都会の学校に転勤できるかどうかにしか関心がなく、副担任の異常な行動に対して無関心だった。そういうことなんじゃないでしょうか。

 (ここからはまったくの想像だけど)地方公務員として一定程度の給与の安定がある中で、教師としてのいい意味での情熱が失せていたのかもしれない。俗に言う「事なかれ主義」になるか、あるいは教師とは関係ない趣味に時間もアタマもとられていたかもしれない。悪い方から言うと、ギャンブルや女性、お酒に走るもの。趣味に夢中になるものなどさまざまだ。
 
 そして女性に新任教諭の副担任。首都圏の4流大学を出て、それでも努力して地元福井県の教師の試験に「合格」した。彼女にある種の幼稚な万能感が目覚めたとしても不思議はない。悪いけどあまりモテそうには見えない彼女は、大学では地味な存在だったのだろう、それを見返したのが県の教員採用試験に受かったことだ。そして赴任した学校。男子に対してある種の「恨み」があったのかもしれない。それが「抑圧の移譲」として表れた。中学生を相手に「幼稚」な行動に出てしまった。それを自分自身でも止められなかった。
 
 校長はどうか。教師の管理職試験に“合格”し、副校長を経てようやく校長になった。この教師は校長になったことがある種の目的の達成になっていたのかもしれない。校長にも序列がある。僻地校の校長はどうみても低い方だ。定年も間近でもう意欲もなく、教師の振る舞いにまで関心はない。若い教師にいろいろ反論されると、それを跳ね返すエネルギーも持ち合わせていなかった。あわれだね。
 
 かつて愚息が通っていた公立の小学校で、毎年1度の授業参観には必ず参加した。それも自分の子の担任だけでなく、出来る限りさまざまな教師の授業を観察した。
その中で6年生の担任をしていた年配(60間近かな)の男性教師の授業を見た。なんの授業なのか忘れてしまったが、ほとんどを黒板に向かって、いわゆる板書する授業だった。時々子どもの方を振り返るがそれは、お約束の行動という以外いいようのないものだった。しかも授業内容は稚拙、いちいち教科書に目を落としてそれをなぞるというものだった。どうみても準備不足としかいいようのない授業内容だった。
 普通の感覚だと、授業参観で保護者が見に来ると思えば、それなりの準備をして臨むだろう。普段ならしなくても。その授業参観でさえレベルの非常に低い授業しかしていないということは、この教師はもうやる気を失せていることが明らかだった。ベテランはヘンに自信もある。何千回、何万回としてきた授業は適当に行って乗り切れると思っているフシがある。それは保護者の目からみて明らかだっだ。授業参観の「感想」にこのことを書いた。この教師は翌年違う学校それも違う区の学校に転勤していった。

 やる気のない教師、ダメな教師の被害を被るのは、常に子どもたちだ。都会の学校ならばそれでも子どもたちは塾に退避することもできる。しかし僻地ではそうした退避場所すらない。都道府県教委(教師は県職員)⇒市町村教委⇒学校(進学校~僻地校までいろいろ)というヒエラルヒーの中で、僻地校にいる校長も含めた教師たちの心情、やる気、能力は想像に難くない。
 もちろん僻地校だからこそと、情熱を持って頑張る教師がいることも認める。でもそういう「いい教師」は少数派だ。(だからこそ時々そうした教師はメディアの企画記事、リポートの対象になる)

 質の低い教師の淘汰の先は僻地校だった。この構造の中で起きた、大事件だった。
ついでに言うと、教育委員会は僻地校のことなんてまるっきし関心がない。中学校担当の彼らの関心は、どこの中学から県の進学校に合格できたかということだ。私立の有力校が多い大都市の都道府県は別として、フツーの県ではどこでも1,2の進学高に県内の優秀な生徒を集中させて、一流大学への進学実績をあげようと必死になっている。それは将来県職員、または中央省庁の役人になり県のために役立って
ほしいという思惑があるからだ。先細りの人口の中で、その傾向はますます強くなっているだろう。僻地校の教師の質の問題なんか、2の次、3の次にならざるを得ない。それが現実だ。優秀な教師は進学校に集中する。次は生徒の全体レベルを上げるため大規模に配置される。それはある意味で自然な流れだ。それからこぼれた教師たちが僻地校で“頑張って”いる。中にはヘンな頑張りをする教師がいても不思議ではない。

 「抑圧の移譲」からずいぶんそれてしまったけど、書いているうちに、今回の中学生の自殺の問題は、実は僻地校問題ではないかという思いに至った。
(タイトルをちょっと変えました)  
 
「超国家主義の論理と心理」

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